HAJIME_ISHIDA
/ Restaurant Owner

Profile

石田 創(いしだ はじめ) / 1986年生まれ:小学校・中学校時代に登校拒否を経験、 「ストリートファイター2 ターボ」 とギターにのめり込む。高校生の頃にオーストラリアに留学、高校卒業後スノーボードのプロを目指し新潟・神奈川・北海道と各地でトレーニングを重ねるが怪我で挫折。アルバイト先で料理に目覚める、後に本格的に料理修行の為に渡仏するもトラブル続きで帰国。生まれ育った鳥取県智頭町に「山のブラン」のブランをオープン、料理はもちろんインテリアなど多彩な魅力を持ち訪れるたびに変化するお店は県内外に多数ファンを持つ。

レストランオーナーまでの道のり

生まれも育ちもここ智頭町です。父は植木屋、母は「ブラン」をやっていました。三兄弟の末っ子のおばあちゃんっ子で、幼少期は活発ですぐ泣くような甘やかされて育った男の子でした。幼少期でとても大きかった出来事は小学校4年生から学校へ行かなくなりました。キッカケは自分の兄(次男)が最初に心の病になって、更に長男も行かなくなったんですよ。そのとき自分もちょうど学校でストレスを抱えていて行かなくなりました。

当時はインターネットもない時代でしかも田舎なので学校に行かないという家はなかったので ” 登校拒否 ” っていうワードでした。それで1日中スーパーファミコンで「ストリートファイター2ターボ」を散々やるんです。学校行ってるはずの8時間をほとんどゲームするんですよ。相当低レベルなゲームで毎日を過ごしていたかと思うとちょっと怖いですね。

中学校の時におばあちゃんが寝たきりになって、お母さんに「兄弟でやりなさい家事をやりなさい」と言われて。料理を始めたのが今の原点なんですよね。好きでやっていたというよりは、うちはお小遣いが出なかったのでそういう環境でも家事をすると1日100円もらえたんでやってましたね。

兄がドラムをやり始めた影響で僕もギターを始めて当時は「ミュージシャンになりたいな」って思ってたんで、中学校も行かないでゲームはあまりせずレッスンに週に1回通ったりしてギターばっかり弾いてました。

ー 料理作りながら、ハタチまでずっとギターだけだったんですか。

中学校では柔道もしていました。夕方三時半の汽車に乗って学校へ登校して校舎に入らずに武道館に直行して、柔道の練習を1時間やって帰りがけに柔道部の友達の家に行ってゲーム・ギターを一緒にしてました。当時ギターが上手い学生はいなかったんで、結構みんなから注目してもらえるような感じだったんですよ。それで「やっぱりミュージシャンっていいな」って思っていたのでギターをどんどん弾いていました。高校は行けそうな学校が鳥取にクラーク博士の「少年よ大志を抱け」高校の分校があったんでそこに入学しました。

ー どうして高校には行ったんですか。

兄貴二人は高校を出なかったので、「親の心情を考えると」という単純な理由と勉強をしたくはなかったですが高校卒業資格だけは持っていた方がいいかなって。

ー 高校生のときにオーストラリアへ留学して、何か変化は。

そのとき統括していた日本人の先生がとても正義感が強く熱い人で「勉強が人を変える」って言っていて、その影響で今勉強してるんですよ。過去があっての現在っていうことを知った上でビジネスをやっていきたくて歴史とかを一生懸命勉強してます。

父の仕事の手伝い、そして母のブランの仕事

帰国してからは父親の仕事を手伝いながらいつの間にか高校卒業になるんですけど、仕事はあんまり楽しいとかそういうのはなかったので本気ではやってなかったですね。高校卒業して車の免許を取って、母のブランの仕事を時給325円でギフトを包んだりディスプレイを任されて見よう見まねでやって手伝ってました。

帰国してからは父親の仕事を手伝いながらいつの間にか高校卒業になるんですけど、仕事はあんまり楽しいとかそういうのはなかったので本気ではやってなかったですね。高校卒業して車の免許を取って母のブランの仕事を時給325円でギフトを包んだり・ディスプレイを任されて見よう見まねでやって手伝ってました。

全て今の仕事に活かされている

コンサートのアルバイト、駐車場の警備員、稲刈り、瓦屋さん、解体業とか色々な仕事をしましたね。その当時は何も思ってないですけど全部今に生かされてますね。

そのときもギターは一生懸命やっててバンドも組めたんですけど、バンドメンバーが週に1回集まれるか集まれないかみたいな感じで、オリジナルの曲を作ろうみたいな熱意・熱量もなかったしダメでしたね。

スノボーもやってたんですよ、スノーボードって個人競技なんで「仲間は関係なくて自分が上手くなればそれだけでいいんだ」と思って、ギターでステージに立ったする憧れのイメージがスノーボードに切り替わるんですよ。スノーボードが上手くなるためには環境に飛び込むのは絶対にやってた方がいいって思ってたんで、二十歳のときに鳥取から新潟の苗場にすぐ移って住み込みアルバイトしながら毎日滑るという生活をしてました。

考えの核

「やるならとことん、すぐやれ」が今も考えの核になっていますね。夏もスノーボードをやりたいから神奈川の溝の淵の近くにある屋内ゲレンデ施設に行ったんですよ。そこで激戦区のパチンコ屋でバイトして揉まれましたね。みんなが一生懸命仕事してるところで働かせてもらえていい経験になりましたね。一年間そこで働きつつ毎日スノーボードレッスンしてました。その翌年に25歳で北海道に行ったんですよ。

仕事がテキパキ要領よくできる

北海道に行ってスノーボードのプロになる夢が破れるんですよね。自分より一回り下とかのすっごい上手い人を見たときは「まだやれる」って思ってたんですけど、怪我で急にやれなくなってしまいました。

僕は何も隠さないで言いますけど半年ぐらいヒモをしてました。大阪に彼女がいたんで、北海道から大阪に行って彼女の家に転がり込んでチワワの世話とご飯作ったりしてました。ある日彼女に「鳥取帰ったら」って言われて、「ごめんなさい。バイトします」って、焼き鳥屋さんでバイトするんですよ。

当時の金髪パーマでジッパーのネックレスをしてて黒い居酒屋のTシャツに前掛けしてサービス券を配ってたんですけど、店が30分で満席になったことかあったんで「面白いな」と思ってました。もうちょっと稼ぎたいなと梅田まで行ってランチのバイトをすることにしたんですよ。

そこは野菜レストランで割烹やっていた人が料理長で会社自体は大きくて北新地、梅田、色んなところに店があったんですけど。僕は仕事がテキパキ要領よくできる方なんですけど、1〜2ヶ月もしたらランチのメニューを担当して100席くらいをバーッて調理をこなしながらどうやったらもっと美味しく調理出来るかなって考えながらやってたんです。

デザートセクションのヘッドに

ストツー、ギター、客引きも料理も自分でアップデートするのが好きだったんです。その会社の梅田でやってた時にフレンチやっていた人が僕の仕事を見て「センスがある、本気でやった方がいいんじゃない、はじめちゃんフレンチやろうよ」って言われたんですよ。料理勉強するんだったら「私が前いたお店に行かないか」って、その人の猛プッシュで東京駅前の新丸の内ビルのレストランで11月下旬から2月の3ヶ月間は洋食の研修をしました。その後グランフロント大阪のシティーベーカリーの立ち上げに参加するっていう経歴なんですよね。

僕はそのお店でデザートを担当してティラミスとか作っていたんですよ。ティラミスだけはちゃんとスポンジ焼いて、エスプレッソコーヒー落として、卵をちゃんと火を入れながら泡立てて、マスカルポーネクリームをバーッと混ぜていう昔ながらの作り方でやってるんですけど、それを作れたという理由で「デザートは石田に任せておけばいいんじゃないか」という事で僕はデザートセクションのヘッドになるんですよね。

大阪で立ち上げだいたい一ヵ月強くらいかけてメニューの試作、完成、それでプレオープンの準備をしていくんですけど、「いや、美味しくないじゃん」と言われて会社から出されたレシピを作るだけのはっきり言ってコンピューターだったんで、デザートの経験ないし「やばいな」と思って速攻で書店行って「なんでこうしたらこうなるのか」科学的なことを考えようと思って基礎的な本を買ってそれを読み込んで自分のレシピを分析して考えたものを実際に作っていって、商品をアップデートしていったんですね。

大阪のシティーベーカリーバージョンのティラミスを考えて作っていったんですけど、試食のときに大変厳しいコメントをする方だって噂では聞いてた社長が「デザートが会社で一番うまい」って言ったんですよ。僕はそれが信じらなかったんですけど「大丈夫・事実なんだよ」って言ってもらって給料がいきなり上がるんで。

会社の方針でメインに立つ

「美味しいか、美味しくないか」最後は自分で決めていたんでそこで評価されたので「やったー!」売る料理できると自信を持ちましたね。デザートの1件があって、会社の方針でメインに立つんですよ。ラッキーなことに料理長が和食の人だったりスペインの大使とかになっている料理人のとこで働いていた人とか、イタリア料理をやっていた人とか、フレンチもいたし、色んな人に教えてもらいました

賄いも一生懸命に12種類くらい作ったんですね。「石田さんが賄い作る、やった!」みたいにみんな喜ぶんです。僕はそれが喜びだったんです。

1年半ぐらいですか。仕事の内容でどうなんだろうな~っていうようなところが増えてきて、それがすごくイヤになってきて、実際にトマトソースだってトマト缶を使ってたりしてたんで、ちゃんとトマトを湯むきしてほじくってね、作って本格的にやりたいという気持ちになってきて街のレストランへ面接とかも行ったりしたんですよ。

シティベーカリーの仕事も大事なポジションだったし、「どうしたらいいんかなー」って言う時に彼女が出来て「世界で輝きたい」と意思がはっきりした子だったんで、人の影響を受けやすい僕はそれで彼女はニューヨーク、俺はフランスってなったんですよ。

料理への情熱もMAX

その彼女が僕の中で大恋愛だったんです。人生の中でとっても大きな人だったんですね。モチベーションが彼女になってしまったんですよ。でも自分のやりたいことでもう一回海外に行きたいっていう思いが潜在意識にあったんですよ。ギターでアメリカ、スノーボードでニュージーランドとか色々あったんですけど、結局やらなかった。27、28歳で、ワーキングホリデーも最後だし、料理への情熱もMAXでしたからやってみようと思って。

こんだけやってダメ

めっちゃ大きなフランス人に「三つ子の魂百まで」っていきなり言われたんですよ。1年後にフランスに行こうと決めて、お金を貯めてフランス語を勉強しようと社員だったのをバイトにしてもう一個フレンチおでんのバイトを入れて毎日働き詰めにしたんですよ。

フランス行ってすぐには料理の修行ができなかったですね。まず住む家が見つからない。後悔してるんですけど誰かに頼って、「ここが俺が働いてたお店だから当たってごらん」っていうあれを断ったんですよ。

裸一貫で包丁一本持ってあえて自分の足で探してみたいっていうのが強かった。家も探すんですけどなかなか見つからず、最初に決めた滞在先の期間ギリギリになったときに、セーヌ川のほとりを歩いてたらその後ろからでっかい影が来たんですよ。

「あ」って後ろ振り向いたらめっちゃ大きな頭丸めてて髭がバーってしたフランス人に「三つ子の魂百まで」って合掌しながら言われたんですよ。「話をしようよ、日本人が好きなんだ。」セーヌ川のほとりで座って話をしていて、「君が困っているなら助けてあげる」って手伝ってくれて彼が一生懸命家を探すけど条件が合わなかったんです。そしたら彼が「家に来い」って。クリストフって人だったんですけど。そこから僕とクリストフと彼女のクリステル三人暮らしがスタートするんですよ。

イエローっていう毛の長い犬の面倒を見ながら料理手伝って、次は仕事見つけるだけだってなるんですね。仕事に行くのに、一ヵ月ぐらいメール・電話をしたり100件くらいやって履歴書を書いて面接をまず受けてってなるんですけど、どこに行ってもことごとく振られるんですよね。

「やばいな」って思ってきた時に近くに老舗のポール・ポキューズと同じ世代ぐらいのクラシックなシェフがいて、そこでクリスマスランチを食べて、シェフが出て来たときにアタックしてやろうと思って行ったんですよ。 

そしたらシェフが出てきてお客さんの席を回って「写真撮るかい」って言われて写真撮ってる時に「ここで働きたいです」って言ったんですよ。 

何かパトロンの人と話し出して「厨房においでよ」ってなって「やった!働けるんか」と思ったらただの挨拶だったんですけど、そのときに営業ツールとして料理の写真を撮って、説明を全部フランス語で作ったアルバムを渡して「働きたいです!」って伝えるんですけど、クリスマスの日が終わって後日「ダメだ」って言われてあまりにもショックでその瞬間にアルバムを取りに行く気力がなくなったんですね。 

「こんだけやってダメなんか」と思って。彼女はその時ニューヨークにもう慣れてて状況がかなり対照的だったんで結婚しようっていう話だったんですけど連絡も疎遠になってたんですよ。 

こいつやべえな

クリストフは僕が落ち込んでたりしてた時にはすごい優しいんですけど、ちょっとおかしいんですよね、自分で「不安定だ」とか言うんですけど僕が例えば面接に行くときについてきてくれたりとか料理長にシャツとか着てちゃんと対話をするんですでも、真夜中にネスカフェのインスタントコーヒーを円に置いてろうそく立てて、僕が料理用に使おうと思っていたパプリカパウダーをばらまいて、トランプのカードを並べて、上半身裸で数珠とかつけて「ハジメ見ろ!」みたいな。「こいつやべえな」とか思うんですけど僕も行くところないからそこにいるしかなかったんですよね。

面接を受けても、僕は学校に行ってないのでお店側としてはNGになる。人材が辻とかエポールとかから直送なんですよね、こういうコネクションってすごいんですよ。僕が行ったところで開けてくれないっていうのが見えてきて「とんでもないことになってるな…どうしようかな」と思ってました。

進展がないのでクリストフ、クリステルとイエローの散歩したりして過ごしていました。仕事もないし季節もだんだん冷え込んできてすごく厳しい気持ちになってきてました。

年末にクリステルの親戚の年越しパーティに誘われて行くんですよ。白人はクリストフだけで黄色は僕だけであとセネガルの人のいとこだったからみんな黒い人だったんですよ。次に新年を迎えたら南の方のエクス=アン=プロヴァンスっていうクリストフの実家にTGVで行く事になるんですよ。

初めてのTGV(新幹線)に無賃乗車で

TGVに乗車しようとした時にクリステルが「ちょっと待って」ってフランス語でバーって喋りだしたんですよ。内容は無賃乗車をしていくっていう話なんですよ。向こうは新幹線のゲートがないから直接乗り場にいけるんですよ。クリストフが無賃乗車の常習犯だったんですよ。

行くって言ったのもあるし行くしかないんですよ、チケット買おうとしても買わせない。だから3人とも無賃乗車でドキドキしながらTGVの空いてる席に座るわけですよ。

途中でクリストフにイエローの面倒を頼まれてたんですけどクリストフがいなくなるとイエローが「クゥーン」と泣き出してきて、駅員さん来て切符なんかチェックされたらどうしたらいいんかなって考えながらずっとイエローを必死になだめてました。

無賃乗車でエクス=アン=プロヴァンスにも着いたんですよ。彼の実家に行ったら結構自給自足型の家で馬を放牧してたりとか、犬もたくさんいたりしたんです。

本当の現地料理と不都合な出来事

その夜のご飯は大きなパイ皿にフォアグラのパフェやトマトスライスとめっちゃ辛いカンパーニュ、カンパーニュの乾燥部分をトマトのあれが補って小麦の味がバア~ッとしてきたりでこういう風に食べるんだと思って、本当の現地料理を味ってました。

ワインはみんなで飲むしパスタはオリーブオイルと塩をかけてるだけみたいのが出てきて、現地の料理なんだなあて思っておいしかったからすごいいっぱい食べて。夜は星がめちゃくちゃ綺麗でこの空はニューヨークに繋がってるんやみたいなことを思いながら「頑張ろうオレ!」みたいな気分になってました。翌日に年末の牡蠣にあたってお腹を下して下痢と熱が出てきたんですよ。その時に彼に「いつまで家にいるんだよ、出てってくれ」って言われて。

その日クリストフは違う友達と会う予定があってエクス=アン=プロヴァンスの街までまた出るんですよ。「クリストフに頼むから帰ろう。」と言ったら「ホテルに行け」って言われて一人でホテルに行ってカードでチェックインしたんですよ。

一晩中下痢と熱もがひどくて何も食べれないんでチョコレートを食べたんですけど、それもダメな方向になっちゃってその状態で一晩明かして、やっと熱が下がってリヨンに俺も帰ろうって思ったんで、クリストフに腹立ったから何も言わずにTGVにもう1回乗って帰ったんですよ。

僕がTGVに乗る時にクリストフから電話あって「TGVに乗るよ」って言ったら、今でもよく分からないんですけど、向こうが怒って急に「お前は、家に戻れない」と言われたんですよね。正月早々に家がなくなって体調不良のまま荷物沢山持って、いきなりホテル暮らしになったんですよ。

絶対日本人のレストランに頼るのは「いやだ」と思っていた

これもうヤバイな1ヶ月もホテル暮らしはできないと思って、日本人のレストランに頼るというのは「絶対いやだな」と思ってたんですけど、ここでも頼るしかないと思って、経歴をメールを送ったらすぐOKの返信が来て、ニースの一つ星レストランに行くことになったんですね。寮があるので家の問題は解決したんですけど、あとは気持ちの問題で「いやだな」と思いながらでしたね。

ー どのくらい働いてたんですか?

ちょうど2、3週間ぐらいやり出して、「やっぱり日本人ところっていやだな」って思うんですよね。フランス語喋る事にすごいこだわりがあって、織田さんの授業を受けたときに面白いなっていうのがあったんで、自分がフランス人とバァーッとコミュニケーションができるっていうのも必要だな、その経験がしたいなと思っていて我慢ができなくて。

シェフに相談をしたら「そういう理由だったら、4月ぐらいまで待てばどんどん人が動き出して、人も募集するから、俺がいたところでよければお願いするよ、日本人一人もいないよ。行く?」って言われて「お願いします」って向こうから二つ返事で「OK」が出たんですよ。そこから勉強に身が入ってきて目標もできたし、朝8時ぐらいに出勤して2時間の休憩でフランス語の勉強するし、仕事終わって0時頃から朝の4時ぐらいまで勉強してそこから4時間寝てまた仕事に行くんですよ。

「やっときた!」みたいなエネルギーが凄かったから。そのときまでニューヨークの彼女にずっと連絡してなかったんですよ。

私は私で上手くやってるから、悪いニュース聞いてもしかたないし、整ったら連絡ちょうだいみたいな感じだったんで「よしここだ」と思って今こういう状況で働いている事や彼女がフランス旅行に来るっていう話あったのでその話もしようと思ってたんです。でも同じ日に既に「もう別れましょう」と連絡が来てたんですよ。

ー いきなりですね、それはなんでなんですか?

「もう好きでない、もう無理ですって。気持ちが続くわけがない」って言われて。所詮口約束ですからね。恋愛ですから。ただ僕はちょっとダメだったんで立ち直れなかったんです。本当にモチベーションが彼女だったんで。僕が評価されると彼女が喜ぶのもそうでしたし、彼女が評価されると僕も喜ぶ、そういう関係で夫婦が築けていけるんだなと思ってたんですけど、そうならないと思うと今度は仕事にならなくなって。

「何のためにフランスにいるんだろう」みたいな感じで考えてしまったんですよ。レストランの地下の物置で泣いていました。これもうどうしようもなくってショックが大きすぎてあんまり記憶もないんですよね。教会でもボロボロ泣いてしまったり、大恋愛が大失恋になってボキッと折れてやめたいやめようと思って寮から何も言わずに去ったんですよ。

それで本当にダメなんですけど、逃げたりしたらね。今こうやって人には隠さずに言えるようになったというか、言いたいなと思ってるんで、僕を語る上では必ず通らなくてはいけない話なんですけど。それくらい大事だったんですね。影響を受けるということもあったんでそうなったときに意味を考えるわけですよ。なんでここに自分がいるのか。本当のやるべきことをやるべきだし。

「ヘッ」て笑われたんですよ

それで寮を出てその後あてもなく野宿してフランスに行く前に僕の師匠で僕の背中を押してくれた人が送別会を大阪のフレンチのお店開いてくれた時に会の最後にシェフが出てきて「カンヌに自分がいた修行先のところがあって困ったらそこを頼りなさい」って名刺をもらってたんですよね。

その名刺思い出して電話したんですよ。カンヌにあるお店でシェフが3人ぐらいいる不思議なお店だったんですけど、そこで面接を受けるんですけど「雇えない」と言われたんです。なんで君が雇えないのかをそのシェフが代弁してくれたんですよ。

もう10年、5年くらい前だったら労働法が緩かったから君を雇えることはできたでもいま法律が厳しくなって、君を雇うっていうことはそれなりのお金が出るから、履歴書を見ても君にその能力があると思えないんだよ。

26で初めてそのときの自分の料理を評価されたわけですけど、全くフレンチの経験がなかったんで、「26まで何してたの?」と言われたときに、「スノーボードとか、ギターとかです」とかって言っときに、その人が「へッ」って笑ったんですよ。最初からダメだったんだっていうふうに自分でしたんですよね。

残念だったな

地中海のきれいな夕日を見て、俺は1人かと思ってフランスにいるのに誰とも心を通わせてない、クリストフとかともうまくできなかったし、自分が大切にしていたものも全部こぼれて去って行ってしまったと。

適当に色んな所に暮らしてみたんですけど、結局生きてかなくちゃいけないから帰るわけにも行かなくなって、パリの「どさん子」ラーメン屋さんで働くことにしたんですよ。面接して受かって、その店長が色んなレストランのシェフと交流があったりしてたんで、「働きたいっていう意思があるんなら紹介してもいいよ」と言われてたんですけど、「いや、なんか僕もういいです」みたいな。

毎日ラーメンを作って帰って寝るだけみたいな目的なしでただ暮らすだけなんで、別に何もないんですよ。何も意思がないから。これ地獄だなって思いながら「どうしたらいいんかなー何もしたくないしなー」ってなってきて、「これが鬱なんだなー」ってすごく思ったんですよ。

そのまま夏になってその辺りで精神的にまずい感じになったんですよ。通勤の途中とかで意識を失ったりとかしたんですよ。もう辞めたいと「どさん子」にも行かなくなったんですけど、「もう何やってもダメなんだ」と思って、ヒゲとかも剃らずに一ヵ月くらいずっと家にいましたね。僕いた部屋が一番安かったんですけど、窓はなかったんで、閉めたら真っ暗なんですよ。ずっと真っ暗の中で過ごしてたんです。

ー 真っ黒な中で何してたんですか。

ずっと彼女の事を思い出しながら横になっていたんですよ。「なんでこんなことになったんだろう」と思ってたり死ぬのも怖いし。「もう帰ろうかな」って決心が出てきて父親に電話したんですよね。「ちょっともう無理だから、帰ろうかなって思う」そしたら「頼れるフランス人がいるからその人とかに聞いてみようか、あんたが働けるところがあるか」って。「それもいいよ。僕はもう帰りたい」そしたら、「そうか。残念だったな」って言われて「残念だったな」というのが僕のフランスであったことのすべてなんですよね。

また海外に行くか、独立するか

肩の荷が降りてすごいスッキリして実家の方に帰ってきて、そしたらこの山のブランの設計図ができててこの計画を知ったんですよ。もともと山のブランはブランワークスの飲食事業として始まってますけど、8年前ぐらいから構想はずっとあったんですね。「この人に頼みたい」っていう建築士さんに設計図を書いてもらって、その設計図がある状態だったんです。

そこで僕は天秤にかけたんですよね。また海外に行くか、独立するか。そのとき「もう独立しちゃおうか。自分で勉強して、自分で出来る範囲でやったらいいんちゃうのか」と思ってお母さんは「どっちでもいいよ、俺がやってくれると嬉しい」って感じで。

「名前どうするの?」って言ったら、「山のブラン」っていうんです。「街のブラン」があって、「山のブラン」。栃木にNASU SHOZO CAFÉ、そのSHOZOって街と山にあるんですよ。お客さんがしている会話で、「街と山のどっちに行った?」みたいな会話があって、ブランでできるなってっていう。親父が「ちょっと人に任せるのはちょっとお前がいるんだったらちょっと協力してもいいかな」みたいなことを言ったりしてて僕が一人でやるっていうんで今の形になっているんですけど。

ー なぜお母さんはやろうと思ってたんですか。

父なりにこういうお店があった方がいいとかイメージがあって、母はもう1回お店を作りたいっていう意識があったんで、そこがマッチしてこういう店にしたらいいんじゃないかっていうのは二人の構想の中にあったんですよね。

それを前提にして、那須へリサーチに行ったりして母は年齢が年齢なんでやるとなったら借金がね、年齢的にはちょっと厳しい、次がいれば借金できるし、ということで僕がやるのが一番いいという自然な考えだったんです。

すぐイベントに出ようと思って、鳥取市の東照宮のフリーマーケットに山のブランの最初の出店しようと決めて、2015年10月11日だったかな。僕が今まで体験した物を出そうと思って、パリで食べたファラフェルのサンドイッチが思い出に残ってたんで、「ファラフェルサンド」っていうのを最初に出したんですね。

ー 大枠だけ決まってて、何を売るとかそういうのはまだ決まってなかったんですか?

全くなかったですね。とりあえず「山のブラン」っていう名前を知ってもらおうと思って、僕がやるんだから、僕が好きな物をやればいいと思って小籠包やサンドウィッチ、ナポリタンのピザバージョンもビーフストロガノフもやりましたね、今ブランで出している料理の原型になっている物もあります。

独立すると決めてから鳥取市商工会の創業塾に行って、コンサルの先生の話を聞きながら事業計画考えてやっている時に「石田くん、”キューバサンド”っていうの知ってるかい。”シェフ”っていう映画見てごらん、そういうのも勉強になるよ」って言われてその映画を見たら劇中に出ていた「キューバサンドめっちゃ美味しそうだな」と思って、すぐGoogleで検索してもどこのお店も出てこないんで「日本全国どこでもでも出してないから俺がやったろって。」考えたんですよ。YouTubeでキューバサンドの動画で検索して分析して作りました。

料理を作る時にここまで分析ないと作れないっていうのがあって、なかなか行動に起こせないっていうちょっとバランスが悪いんですけど。間違いなく相性とかあるので、ある程度自分の中で料理のルールがあって、創作とかにより発展しやすいので。自分が思っている美味しいとか、そういう傾向にあるんですよね。微調整はそのあとすればいい。もうちょっとやわらかいほうがいいとか。

ー 美味しい基準とかっていうのがあって、そこの合格ラインを越えてから?

そうです。だいたいそんな感じで。

ー 石田さんの判断で?お母さんに食べてもらうとか。

全くないですね。

ー 自分の判断だけ?

そうそう。

ー ストーリー的には3年前ですか、4年前ですか。

そうそう、だいたいその間くらいですね。今度はケータリングの話になってきて、ケータリングをしたり。

ー その前までお店のイメージとか固まってたんですか。

いや、全然なにも。本当にその時その時で変化しますね。

ー ヴィジョンはありますか。

今の僕だったら「意味のない物」は食べたくないとかのこだわりですよね。さっき言った分析もそうなんですけど、回転率とかも考えながらやったりするんですけど、理由があって配置が変わったりとか、特に絵とかそうなんですけど、今の考えでいくと元々文化を発信したいなっていうのがあって「文化って何だろう」って鳥取の作家さんとかに行き着いてるところですね。

またこれが違う物に変わるのもそうだろうし、うちはうちのやり方っていうのはメッセージ性があるものじゃないと思ってるんで。ただおしゃれとかいうのでは僕はあんまり考えてないというか。もちろん見た目大事なんですけどでも、それは僕は実際にヨーロッパに行って見てきてるので、そういうテイストを入れてどういう風に飾るとかを考えていますね。

食事は特別な体験のもの

普段体験できないことを僕は皆さんにしてもらいたいと思ってるし、やっぱり食事って特別な未体験のものだと思うんですよ。山のブランってわざわざ行くところなんで、「そういうところに力を入れないといけないしな」っていうのがあるんで、常に「どうしたら良くなるだろうか?」と考えながらやってます。なので「絶対これはこう」みたいな考えはないです。大事なところはちゃんと持ってて。

ー 特に大切にしていることはなんでしょうか。

僕がそれを好きであることですかね。それが一番大事。例えば絵にしても、料理にしても。空間にしても。音楽にしてもそうだし。

ー 確かに石田さんの好きなものがブランには統合されている感じがしますよね。

はい。僕がここでサービスする時も、パチンコ屋での経験が生きていますし、その上で自分のサービスがあったりとかあるし、あるいはお菓子を並べる台も必要であれば全部自分で作るとか。

「超オリジナル」っていう言葉が好き

ー「オリジナル」と「超オリジナル」ってどう違うんですか。

例えば商品は作るけどパッケージは既製品の物を使ったりとかするじゃないですか。でも僕はパッケージも作りたいんですよ。商品だけじゃなくてなるべく全て自分の手から一通り手を入れるのが僕は好き。チラシとかも作るときもそうなんですけど、圧倒的にプロの方がすごかったりするわけですけど負けたくないっていう気持ちもあったんで。

ー パッケージのデザインとかもご自分でされたりして世界観が良く表れていますよね。

メニューもそうですし。自分の統一した世界観になるようにと思ってて、その上でなんかフレンチ高級なフレンチとかを出してみたいなって。

ー 僕も初めて来店した際に「智頭にこんなお店がある!」って嬉しくなりました。小さくまとまらずに大胆ですし、クラシカルな美味しさもあれば、チャレンジングな部分もあるじゃないですか。それに料理としても調和されていてすごく美味しいですし、まさに「超オリジナル」ですよね。

ありがとうございます。自分で全部料理も考えてみて、お客さんに判断してもらえたらって感じです。まだ内装の方とかも力入れてやりたいですけど、そっちの方は抑えてますね。

二面性を持たせてやりたい

ー 今後の構想とかあるんですか。山のブランの理想の姿とか。

二面性をここに持たせてやりたいなと思ってんですよね。昼はカジュアルで非常にオープンな場であって、夜はしっかりというようなのを一人でやればできるかと思ってるんですよね。さらにもうちょっと上の段階の企画も考えたりしてるんですよね。

山のブランってフランス語で言うと、「ブランドゥラモンターニュ」。「ブランドゥラモンターニュ」が音的にも個人的にも好きなんですよ。ロゴを作ったのも僕なんですけど、「ブランドゥラモンターニュ」って元々母が「ブラン」を作っていて、僕はその下に「ドゥラモンターニュ」って付け加えたんですけど、これが非常にバランスがいいなと思っていて、円形の中にあるのがね。

漢字で「山」カタカナで「ブラン」で「山のブラン」というのが、一般的なイメージっていうか。「ブランドゥラモンターニュ」じゃなくて山のブランっていう方でみんな来るので、「ブランドゥラモンターニュ」っていう別のドレスコードがあるようなしっかりしたものを食べるお店作ったらいいかなって思ってるんですよ。

もう1つ、お休みにしている水曜日を開けてもいいかなと思ってます。内容はまだボヤッとしてるんですけどコースを提供して、料理のことだけ考えるっていう事に時間を割いて自分をどんどんアップデートしようっていう感じにしたいですよね。そういう方が僕のやりたいことでそういう能力もたぶんあると思っています。それはこれまでのケータリングで色んな人が食べてくれて、「自分はいけるんだと、あの時に僕はフランスで止めたんだけど、細々とでもいいから自分でやったらいい、自分で発信すれば良い。」と思ってます。

ー クリエイティビティが発揮されるところですよね。

色んな表現があってもいいんですけど、ごちゃごちゃにならないようにしようっていう感じですね。昼と夜で全然違うのもいいのかな。

ー 他のレストランと特に違うところを紹介するとしたら?

レストランっていってもメインA・B選んで、選んであとは前菜みたいな感じじゃないですか。極端な話、もっと気軽に「昼は定食でもいいかな」と思うんですよ、夜はコースが出てくるとかていうのもこの地域を見たときに、今やってるピザとかもフィットしてるかといったらフィットしてないので、そこは追求していくといいモデルがあるってそこは定食が昼の顔で夜は奇抜なじゃないですけど、かっこいい料理を出しているんですよね。そういうのもチャレンジかなと思ってます。

ー 地域にも馴染みつつ、自分のチャレンジ、追求もしていく?

レストランだからすごく格式が高いとかじゃなくて、時間によってはホームレスの方にね、料理を振舞ったりするのがパリであったりするじゃないですか。浮浪者なんかいないんでそういうのはできないですけど、昼にここで味わってもらえる味っていうのもまだ余地があるかなとか思うし、夜はもっと自分のチカラを出せる場所にしたらいいなと思うし。

今後について

たぶんそれを経て、50歳時ぐらいに「絶対これだ、このぐらいになってるだろう」っていうのを自分でイメージしてるんですね。その時は世界で戦いたいっていうのはすごい思ってますね。

ー 思い描いている理想はありますか。

あります。その時に僕に技術・価値があれば、わざわざここにご飯を食べに来てほしいっていうのはあります。そこに向かっていきたいなって思っています。料理人である以上、上を目指したいのは本心ですから。自分の経歴は誇れるもんじゃないですけど、僕は能力はないと思っていないし、自分に自信がないわけでもないと。必ず感動させることができるだろうと。みんなも言ってくれますし。そこはもう諦めずにやりたいなと思ってるところですね。

すばらしい!最後に見てる方にメッセージを。

歴史を学ぶというのが最近大事なことだと思って。これから海外の人と関わってくるというだけでもなくて、自分で歴史を分析したり、調べたりするのが好きだったんですよね。

自分がどういうことをしていきたいか悩みがあったので、そういう情報収集の時間を当てたりして、「やっぱり人のために生きたいな」と思いました。

自分一人で生きてるわけじゃないっていうのもそうなんですけど、私たちって幸せな国家じゃないですか。過去の歴史を見るとやっぱり今すごく豊かだしとか、すごく分かるんですね。片や貧困国や独裁国家とかで生まれると弊害があって縛られた環境とかもあったりするんで、そういうのはちゃんと分かった上で、日本人として仕事していきたいなと思ったりするんですよ。そういうのはすごく学びで。

ー 日本人としてという想いは強いんですか。

「日本人として」と言っても微々たるもんですけどね。侍じゃないですし、昔は侍だったとしたら正しく生きたいと思いますし、飲食って人を幸せにする仕事じゃないですか。美味しいもの食べてもらって幸せみたいな。そこに向かって行きたいなというのはあるんで。

ー そのためには何が必要なんですか。

1つずつ自分の中でやらないといけないと思っていることを、やるというような感じがしています。

ー なるほど。楽しみですね。

1年後2年後全然変わってくると思うんで。

ー 成長を一緒に楽しむという感じですね。

近くにいらっしゃるんでね。

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