Talent No.6

KENJIROU_MATAYOSHI
Goldsmith / kuganizeiku_Matayoshi

  • #道具あっての僕なのか、僕あっての道具なのか
  • May 10th, 2020
Profile

1931年 沖縄生まれ代々金細工を受け継いできた又吉家の7代目。金細工の歴史は尚眞王時代(1509年)に遡り、初代は首里王府の命により唐に留学し金細工の技術を修得しました。戦争で一時は技術が途絶えたが6代目(父)又吉誠睦さんによって金細工の技術が復元された。現在では7代目又吉健次郎が6代目から引き継いだ道具を使用し沖縄の風土に根ざした伝統的な装飾品を昔ながらの手法で作り続けている。「仕事を残すということは道具を残すということ。」

道具に気づく

ー ジーファー(かんざし)を一本を作るのにどのくらいの時間がかかりますか?

皆さんに良く聞かれるが、きちんとした形に作り上げるまでに何度も何度も作り直しをするので時間を気にしていられない。

自分1人で作っていても、写真の親父が後ろから見ているので「こんなんじゃダメ」と言われたら作り直し、「よしこれなら」と言われたら完成という過程を繰り返して、一個一個仕上げる。

数を作る仕事じゃないので、注文を取っても仕上がる日にちをお約束できない。

ー 前に又吉さんはラジオ番組をやられていたとお聞きしたんですが。

僕は言葉も1つの文化だから方言でやってみようという事で方言ニュースをやっていた。当時のラジオはNHKのアナウンスメントが基準で女子アナも皆それを基準にしていたのでアナウンサーは方言(うちなーぐち)が喋れなかった、だから古典音楽をやる人を呼んで方言ニュースをやっていた。

ラジオの方言ニュースを作っていた頃に、親父もちょうど今の僕と同じぐらいの歳になっていて、親父が「金細工」(くがにぜーく)という仕事を続けるのは、体力的に難しいのではないかと思っていた、その時に「道具」に気づいた。僕はラジオをやっているし、親父が打てなくなり道具が使われなくなると、道具の意味がなくなると思った。

道具は道に具えてと書く、要するに「金細工」という道に具わっている道具だからその道具を使わないという事はそこで「金細工」は終わってしまう。

ラジオは僕がやめてもみんなでなんとかなるが、「金細工だけは代々やっていたので、今終わらせるわけにはいかないだろう」と、そこで僕もやってみようという事で打ち出したんですよ。僕が打ち出した当初は親父は黙っていた。「こんなのではメシは食えないからやめとけ」と言いたかったんだと思う。

僕が打ち出しているとお袋がその音を聞いて「おい、お前の音はちゃんと出来ている。代々の音になっている。」とお袋に言われた。その一言でその気になってそれ以来47年間続けています。

うちは六代も続けて王府にも仕えていたので終わる物じゃない、伝統は終わらせる物じゃないだろうと続けていたら火が付いて今日までやっている。

後継者について

ー 後継者はお考えですか。

僕とかれこれ10年ぐらい一緒に打ち続けている多摩美術大学卒の女性がいる。

僕は芸大を出ている人をあまり歓迎はしなかった。というのは彼らは学校で教えられているので、すでに自分という物を持っているだから、自分を表現しょうとするのが彼らの主ですよね。それはそれで立派な物だと思うでも「金細工」の場合は自分の表現じゃない。その事に対して躊躇していた。

ー 又吉さんが指導されたのですか?

1人の女性が来て、彼女は僕と同じリズム同じ音で打つものだから、聞きようによってはピアノの連弾かと思うほどで、母が僕の音を確かめたように僕は彼女ならいけるんじゃないかと思った。だから「どうだ1つやってみないか。」と言ったんですよね。

「金細工」は指導して出来る物ではない。僕の音を、代々の音を彼女が受け入れるか。彼女はそれを受け取ってくれた。それから2人で言わず語らずでもう10年やっていますね。

彼女は当初うちに仕入れに来ていたが、「金細工」を打つのをやりたいという事でやり始めた。お互いに呼んだわけでも呼ばれたわけでもなくて、こう自然に寄ってきて自然体みたいな感じできている。僕はそれが一番重要じゃないかと思った。

なので自然の形で日々彼女と一緒に「金細工」をやってますよ。

今まで何百年の間「金細工」に女性は存在しなかった。「金細工」に使う鞴の神様や火の神様(方言でヒヌカン)は女性の神様なので、女性が職人をやると嫉妬するという俗説でいなかった。時々「お前、今嫉妬されているんじゃないか」と彼女に冗談を言ったりします。

弟子入りした人でも自分の作品を作りたがる人が多くいた。僕はそれはそれで結構だと思っている。僕の場合は自分の物でなく代々の物である。譜代の道具をつかって譜代の音で譜代の形にするのが僕の仕事だから。

「金細工」の音は僕と親父との対話みたいな物、ただ打っているのではなく方言で言うと「ちゃーえーびーがーたんめー」(どうですか、おやじさん)という言葉をかけながら打っている。

そういう対話をする事によって同じ物を作り続けることが出来るんじゃないかと思う。だから僕は僕が作った物を一度も自分の作品だと思った事はない。

親父に返すために代々の音を聞いて「これだよ」「この音で作りなさい」「ちゃんとできているじゃないか」と親父に言われる物を作りたい。

普段はあまりこういう事は言わないが、いつも言われたいと思っている。

父親について

親父は小さな頃から「金細工」をやっていたが、戦争でそれどころではなかった。父は新しい時代に廃藩置県で沖縄かんぷうをしなくなる事に、気がついて床屋をやるつもりで床屋で修行をしていた。

そしたらおばー(父親の母)が「君が床屋をやるのはいいけど、君はその道具(「金細工」の道具)をどうしてくれるのか、代々残っている道具を君はどうしてくれるのか」と言われて親父も代々の道具にかえった。

親父も那覇の壺屋でやってた事があるんです。当時は戦後で親父は基地の兵隊相手に銀貨を溶かして指輪を作っていた。そこに濱田庄司先生(民芸運動の陶芸家)が親父が打つ音を聞いて、濱田先生の方から寄ってきた。

濱田先生に「何者ですか」という事を問われて、親父は「首里王府に仕えるくがにぜーく奉行の1人だが、今は首里城も戦争で焼失していたので兵隊を相手に色々な物を作っている。」と言った。

そこで濱田先生に「もう一度琉球人としてかつての王朝時代の仕事をやりなさい」と言われてハッと気がついた。言われてみれば代々やっていることなのに…と。

親父がまた「金細工」を始めようとしている時にも濱田先生と棟方志功(版画家)から激励の言葉をかけて頂いた。

そこから親父は改めて首里王府に仕えて、幸い「金細工」の道具が残っていたのでそこからまた始まっている。

ー 道具の存在が一番大きいですね。

僕は時々打ちながら「道具あっての僕なのか、僕あっての道具なのか」と問いかけるけど答えは出ません。

ただ伝統をつなぐというのは大事な事で、僕が継承して次へ継承するまでは、これは僕の責務だと思うし、親父に対するもう一つの報いであってそれが僕の仕事、存在意義かと。

変えて良い物と変えてはいけない物

僕が言葉にしなくても色々な人と出会う事で伝わる物がある。

色々な人が来てくれて話を教えてもらったり、こっちから教えたりする事によって繋がっていく、1対1の仕事ではなく本当に多くの人の繋がりで仕事をしている。

何も買わなくても工房へ来てくれる事が一番嬉しい。

子供も良く工房へ来るんで、子供が来たら打ち場に座らせて木槌で打たせるんですよ。子供は何気なく打っているけど小さいながらに何かを感じとっているんじゃないかな。大人になって小さい頃に首里で木槌で打った記憶が残っている。それだけでもいいから子供が来たら必ずやらせる。

ー 又吉さんは毎日ステーキを500g食べて、元気ですね。

昨日もステーキ食べたばかりでお腹が出ている。國吉さんに作ってもらったジーパンが履けない。※(國吉さん:又吉さんはデニム職人ダブルボランチの國吉さんと親交が厚い)

ー 元気の秘訣は?

何も考えないことが元気の秘訣。

最近は何も考えない、考えきれないのかな。考えない事にしている。もう自然体で親父が「こうしろ」と言っているのを素直にしょうかなとそれだけの事ですね。

ー 今の世の中をどう思いますか?

僕は時代の変遷は基本的には変わらなくて、生きる事そのものは変わらないと思う。道具の変化はあると思うが哲学的な意味じゃなくて、生きる事自体は変わらないんじゃないかな。

ー 以前に又吉さんが「iphone」を神様と言っていたんですけど。

そんな事言ったかな。

道具が変わるのは時代の変遷で当然変わるべきだと思っている。変わらないと時代の変遷にはついていけない。それはそれで良い事だと思うけど、僕は1つ元があると思っている、伝統にも踊りにも1つ元があると思う。

ー 前にお話を聞いて印象に残っているのは、「伝統舞踊の踊り子さんが中国製のかんざしを使っていて美意識を疑う」と言っていましたが。

「踊り子自身の創作舞踊をする分には問題ないが、古典舞踊だけは…」と言いたかった。出来たらそういう子が工房へ来て、私の作ったジーファーを買わなくてもいいから、話を聞かせて欲しい、どう受け取るのか分からないが「金細工」の音も聞いて欲しい。

変わらずに残すというのは難しい事ですね。時代の移り変わりで変わるのが本当なのだろうけど変わっていけない物はそのまま残していきたい。

辰巳芳子さん(料理研究家)がウチに来られた時に「物には変えて良い物と変えては良くない物がある。ここには変わらず残っていてとても嬉しい。」と言っていた。

その言葉が僕にはずっと残っている。「そうなんだよな、道具も音も変わらない」

残す物は変わらず残す。色々な作品の広がりはあっても良いが元は1つ。それは変えていけないんじゃないかという事を今も僕は肝に命じている。

「変えて良い物といけない物がある。」という言葉に支えられて二人共やっているんじゃないかと思う。

ー ありがとうございました。

何言ったかわからん。ただのユンタク(おしゃべり)かもしれない

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KENJIROU_MATAYOSHI

1931年 沖縄生まれ代々金細工を受け継いできた又吉家の7代目。金細工の歴史は尚眞王時代(1509年)に遡り、初代は首里王府の命により唐に留学し金細工の技術を修得しました。戦争で一時は技術が途絶えたが6代目(父)又吉誠睦さんによって金細工の技術が復元された。現在では7代目又吉健次郎が6代目から引き継いだ道具を使用し沖縄の風土に根ざした伝統的な装飾品を昔ながらの手法で作り続けている。「仕事を残すということは道具を残すということ。」

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