Talent No.16

SHIRO_OGUNI
Producer

  • #先に行動、思い切り、かろやかに。
  • April 19th, 2024
Profile

小国士朗(おぐにしろう)2003年NHK入局し「クローズアップ現代」「NHKスペシャル」「プロフェッショナル 仕事の流儀」などの番組を担当。33歳のときに発症した心臓病をきっかけに番組制作を断念。以降、ディレクターでありながら番組を作らず、プロモーションやデジタル施策を企画する働き方を開始する。150万ダウンロードを突破したアプリ「プロフェッショナル 私の流儀」の開発や世界150か国以上に発信された、認知症の状態にある人たちがホールスタッフを務める「注文をまちがえる料理店」などヒット企画を実施。以降、自身の価値を「“素人”の目線を持つこと」とし、精力的にプロジェクトを企画。近年の主なプロジェクトに「deleteC」「丸の内15丁目プロジェクト」「Be supporters!」などがあげられる。

打ち合わせの合間を縫って、タクシーで現れた小国氏。今回の会場は新宿の某蕎麦屋。小国氏の好物であるというカレーを食べながら。

自分の中にいるモンスターを知った、少年時代

幼少期はどんな子供だったんですか?

小学校の頃、学級会を開かれたことがあって、小国くんについてって。みんなで僕のよくないところ、どこが問題かということを話そうと。その時に、僕は書記だったんですけど。自分で黒板に書きました。「小国くんについて」って。

みんな小国さんに不満があったんでしょうか。

そうです。僕、頭のいいジャイアンみたいな感じだったんです。ファミコンの順番を守らないとか、自分が忘れ物してない時だけ忘れ物チェックした方がいいんじゃないか!って言い出すとか。クラスの子たちみんなが感じてた僕に対する違和感や直してほしいところを言って、最後に「小国くんについて手紙を書きましょう」となって手紙を書く。

手紙にはどんなことが書かれてたんですか?

自分だけが得するようなルールを作っていくとか、我慢できてないということを書いてくれてました。その時に自分の中ですごく感じたのは、自分の中にはモンスターがいるんだなということ。 俺はみんなと仲良くしていると思っていたんですけど、全然そんなことなかった。モンスターが暴走しちゃって、クラス中を変にしちゃってたんだと気づきました。でも、自分ではどうすることもできない、ものすごいエネルギーだから制御できなくて。

それが小学何年生のことでしょうか。

4年生です。それで、翌日から友達が0人になりました。両親にも、あんまり僕のことが理解できないということはずっと言われてきました。大学の時に起業したり、NHKを辞めるというときも理解できないと言われました。「え、なんでなの?なんでそんなことするの?わからん」って、ずっと。でも、最後はちゃんと応援はしてくれましたけどね。

それは小学4年生のときに発覚した小国さんの中にモンスターがいる、ということと辻褄が合うんでしょうか。

うーん、どうなんでしょう。自分自身、よくわからないというか。とにかく10歳にして、俺はこの自分の中にいるとんでもないパワーを持ったモンスターとこれから先ずっと向き合ってかなきゃいけないんだというのはすごく感じたので、それは割としんどいなと思っていましたね。

今でもですか?

そうですね。今ではそれほどしんどさを感じることはなくなりましたけど。ただ、10代の頃は自分の中にモンスターがいるんだということを自覚して制御しなきゃいけないと思っていた。だからお守りみたいに当時みんなにもらった手紙を持っていて、危ないなと思うときは読み直しては「そうだよな」みたいな。自分を解放するということが、しばらくはほとんどなかったんです。

自分の制御に徹する

それからはずっと自分を制御し、外から眺めてるんですか?

はい。制御しないと、またみんなに迷惑かけるとか、嫌なことが起きるんじゃないかというのがあったので、中学、高校もそれなりですし、浪人してなんとなく大学に入って、ほぼ引きこもり状態でサッカーゲームだけやり続ける生活をしていました。 

生きづらさとか、感じてました?

そうですね、自分は何しているんだろうなみたいな。わかるじゃないですか、自分が本気出してないって。全然力使い切ってないし、だけど使い切ることも忘れちゃっている。もうずっと使ってないからやり方がわかんない。でも、このままじゃヤバいよなぁというもどかしさもあって、大学3年の時に起業しているんですけど…。

起業ですか。

毎日ずっとゲームやっていたある日、左手の親指を見たら十字キーの形にへこんでたんです。それを見て、アカン、俺死んでいるなと思いました。生きているんだけど、社会的に死んでいる。何もない人間だと強烈に自覚したんです。

十字キーの形にへこんだ親指を見て動かなきゃと思いました。それが大学3年生で、久しぶりに自分を解放して動いてみようと思ってまず、アカペラをやりました。歌うのが好きだったのでまずはやってみようと思って。

それでインターネットの掲示板を見てメンバーを募集してたところに、飛び込んだんです。それがきっかけでできた知り合いと一緒に会社を起こしました。でも、その共同代表がお金を持って逃げちゃったんです。突然1200万円の借金を背負うことになった。うわぁ、なんか、力を出すとあんまりいいことがないな、と。しんどいな、でもお金返さなきゃいけないからなんとかしなきゃ、というところから、もともとする気もなかった就活をして、なんとかNHKに入れてもらうんです。

モンスターを解放するとき

再びモンスターは解放されるのでしょうか。

解放は、NHKに入ってからです。NHKに入ると、自分が一生懸命やればやるほど、社会にとってよいことにつながるとわかりました。かっこいい人、生き方がすごく素敵だなという人を一生懸命取材して広く届ける、絶対に社会にとってもよいことである、と。

NHKの番組制作は、まるで自分にとって、エネルギーを流し込む水路ができたみたいでした。そこからはもうフルパワーです。

不思議なものですね。NHKに入って、また水路ができて。

はっきりいって運ですね。そもそも当たり前ですが借金する気もなかったし、ベンチャーでやっていくつもりだったからNHKを受ける気だってなかった。だけど、NHKに入れてもらえたことによってある種、本当に救われました。自分の生きる道みたいなものをけっこう明確に感じることができました。 

やがて、フルパワーが届かない

ですが、番組制作をやらなくなると。

作った番組には愛情しかないんですが、現実を見ると届いてなさそうなこともわかってきました。必死で作ってたんだけど届いてない。見てくれているのは65歳以上の方ばかり。それだって見てくれているのはありがたいけど、もっと、社会を動かす世代、自分と同じ世代の人に見てほしいのに、全然見てもらえない。恐ろしいくらい見てもらえないんですよ。で、不思議なんだけど、頑張れば頑張るほど届かない感じがして腹も立ちました。もういい加減に見てくれよ、お前らって。ものすごい責任転嫁なんですけど。すごく番組を作る腕が上がっていたし、自分でも番組制作のテーマを持ち込めるようになってきた。番組作りの面白さがすごくわかって。でも見てもらえない悲しさ。

そうですね。

頭でわかっている、このままではいけないと俺もわかっていた。もっと情報を届ける努力をしなくちゃいけない。テレビだけじゃ絶対に届けることはできない。もっともっと工夫が必要だってわかっていた。だけど、結局目の前の番組を作らないといけないじゃないですか。だって、来週の放送枠が決まっている。自分が取材した内容を心から大切だと思っているからこそ、なんとか番組を届けたいんだけど、どうしたらいいんだろう。テレビだけじゃダメだってわかっていたけど、それもやめられない苦しさ。そんなモヤモヤが自分の心を覆いまくっていた時に、突然心臓病になって番組制作から強制的に降りることになったんです。

もしかしたら身体からのメッセージだったかも。

そうかもしれない、3カ月くらい本気で沈みましたけど、その後吹っ切れました。自分の中で「これはオイシイぞ」と思っていることに気づいてしまって。自分の中で勝ち筋がなかなか見つけられないこの戦いからこれで堂々と降りられるじゃないかと。大好きだった番組制作だったんですけど、それをもうやらなくていい、「これはオイシイ」と思っている自分がもう無視できないくらいはっきりといるわけです。そこからです。病気で本当に死にかけたことだし、もう本当に好きなことだけをやろうと思って。もう俺は何がなんでも、どんな手を使ってもいいから自分が大切だと思うことを届けきるんだと決めました。

死を意識しているんですね。

あんまり考えないじゃないですか、死ぬかもって。 

意味が分からなくて嫉妬する

プライベートは?精力的なんでしょうか。

プライベートは、本当に何もしないんです。欲望があんまりないんですよ。家でじっとしています。何もしない。

仕事とは打って変わって。

日頃は会議があって、今、20個くらいのプロジェクトがあるので、その会議がずっと月〜金あって。あ、土日もそうです。企画書を作るとかアイデアを出さないといけないとか、アウトプット系は休みの時にやる。あ、だから仕事しかしていないですね、基本的に。

趣味とか自分の時間みたいなものないんですか?

ないです。でも現代アート、全然知識もないんですけど見に行きます。美術館にはちょこちょこ、行くようにしています。

それは好きで?仕事のため?

現代アートはわけわかんないなぁって思うのが多いけど、それがいいというか。意味わからないじゃないですか。それをあんな堂々と美術館に飾る勇気ってすごいな、と。こんな黒一色の、よくわからないもの、こんな大きく描いちゃって、こんなところに置いちゃって、自分だったらできるかなとか、考えます。そういう意味で言うと俺はずいぶんと常識人だよなと思って。

そういう視点があるんですね。

常に脳みそがパカンって割れる感覚を持っていたいと思うのですけど、どうしても企業の人と仕事しているとぎゅうって脳が固まってくるというか。これをやったら、大人だし、アカンよなとか、わかるじゃないですか。そういうことに、だんだん自分が囚われていく感覚がある。その時にやばいなと思って。世の中には、こんなことで堂々とどうやっといって、世の中にどーんと問える人たちがいるのに、俺って縮こまっているなとか、つまんないなという。現代アートに嫉妬する感覚があります。

形にすることにこだわる

小国さんは自分の中では、作り手としての側面があるでしょうか?それとも届け手?

自分では両方だと思ってます。

どう両側面の自分と対話しているんですか。ぶつかり合いもあるんでしょうか。

そんなにないですね。作ったら、ちゃんと届けきるっていうのが1セットなので。あとは企画の大きな方向性やこれしかない!っていうコンセプトが決まれば、細かい部分はそれほど気にならないです。全部自分の手でやりたいという思いは希薄な方だと思います。たぶん、その世界観をしっかり共有したデザイナーさんや様々なプロフェッショナルたちが生み出すものがきっと正解なんじゃないかなと思ってしまうんですよね。むしろ期待しちゃったりしています。餅は餅屋だし。どんなものが生まれてきちゃうんだろうってドキドキ、ワクワクします。やっぱり自分が考える以上のものが生まれる瞬間が楽しいので。

コンセプトさえ明確にできればある程度満足する、あとはチームメンバーに任せる?

決して満足はしないんですけど、まずは自分の1番大事な仕事はやれたなと思うんです。だけど、思いついた企画を形にすることにはものすごくこだわります。構想・企画を思いつくこと、これは簡単です。でも、思いつくこととそれを形にすることはまったく意味が違う。使う筋肉もまったく違う。形にするということに、絶対こだわる。思いついた以上、企画倒れということはありえない。

形にする上で壁はないんでしょうか。

逆に、なんで形にすることができないんですか?

いろんな制約があるということではないでしょうか。社会との接合や予算の問題もあるでしょうし、なかなかその周りの人とうまくコミュニケーションできないとか、発想したアイデアを届けられないとか。

それで言うと、最初の企画の解像度はこだわります。どんな企画であっても最初は形がないからエソラゴトにすぎないじゃないですか。さらにそのエソラゴトはみんなが見たことがない世界だったりする。だからどんなものなのかが自分の中で相当見えてないといけないと思います。

「これって結構面白そうだよね」だけではダメです。その画が心からそのメンバーが面白い、見てみたいと思えるかどうか。見たいから、みんなが立ち上がる。それを見たいと思えないと、ぼやぼやっとしたものになって、辛くなって一人抜け、二人抜けってなって、途中で企画は立ち消えになっちゃうから。

それが解像度ということですね。

僕は絵は描けないけど、それを言葉ではきちんと説明できる。この人は本気だ、本気でこの世界を作ろうとしているんだってことを伝えることに全力を尽くします。

ピュアかどうかということ?

やっぱり誰だって、本気の人とやりたいじゃないですか。そこにはたぶん希望があります。

風景を見ること

風景が大事、とよく言っていますよね。

すごく大事だと思います。結局風景って、人それぞれに解釈が生まれるからいいんです。例えば、今見えている風景も僕と島田さんで見えている風景は同じだけど、違うじゃないですか、捉え方が。

風景というのは同じように見えて、全然捉え方が人によって、あるいはタイミングによって変わってくるから解釈が多様です。その風景をなんとなくみんなが描いて、それはとってもあったかいものだなと感じる人もいれば、すごくワクワクするものだなと感じる人もいれば、形にめっちゃこだわる人もいれば、で。その解釈が多様な方が、世界はより豊かに面白く変化していく可能性があるので、あんまり僕の方で答えを規定したくないというか。

解釈が色々あるような風景をまず捕まえに行く?

そうです。例えば、僕はラグビーワールドカップのプロジェクトをやりましたけど、関わるまでラグビーを一度も見たことがなかった。正直興味を持ったことすら一度もなかった。で、ラグビーを面白いと思った瞬間は、人生で初めてラグビーの試合を見に行った時に、どっちが日本代表か分からなかった、その瞬間なんです。

日本代表だけど、いろんな外国人がいるから?

めっちゃいるから、一緒にラグビーを見に行った人に「どっちが日本代表ですか?」と聞いたこの瞬間、僕にはラグビーがものすごく面白いものに見えた。これがダイバーシティアンドインクルージョンの理想形じゃないか!というふうに見えたんです。たくさんの企業が思い悩んでいるダイバーシティアンドインクルージョンがラグビーでは圧倒的に進んでいる。すごいな、ラグビーって!って思って、がぜん興味がわいた。でも、ラグビーが多国籍だってことなんて、ラグビーが好きな人からしたら当たり前すぎるから、なんとも思わないわけです。僕みたいな素人はびっくりして感動しちゃった。この解釈の幅が面白いですよね。同じものを見ているだけなのにね。

こんなものを俺は見たんだよ。こんな風景だったんだといったら、そこから人によっては色々また解釈があると思うんです。それを変だなと思う人もいるでしょうし、不謹慎だと思う人もいるでしょう。でもそれもすべて解釈です。めちゃくちゃその幅は大事だと思います。

そこって結構、抽象的じゃないですか。どこまですり合わせたら、次のフェーズに入るんですか?

2019年から立ち上げた、みんなの力でがんを治せる病気にするプロジェクト「deleteC」を例にすると、自分もユーザーとして、一人の市民として普通に生きていて、例えば「がんの治療研究の応援をしようよ!」と言われても何をしていいかわからないけど、Cの消えたCCレモンがコンビニに並んでいて、それを手に取ったら「これはCancer(がん)の頭文字のCを消したdeleteCというプロジェクトに賛同してサントリーがやっているもので、この商品を買うとがん治療研究の寄付になるんだよ」ってパッケージに書いてあると。「あぁそれなら買ってみようかな」ってレジに持っていって買うところまでいく、その様子がありありと浮かぶ、消費者として、一人の市民としての自分がそれだったら「やれる、やってみたい」って思うよなっていう絵や感情がものすごくリアルに浮かぶ。そこまでいけば、これを形にしよう、きっといける!って思えるし、そうなったらもう、CCレモンからCを消さなきゃいけない。じゃあ、サントリーに行ってくるかなみたいな。

そういう流れですね。ユーザーとして最終的にどういう行動を起こすか。

最後は一市民として、主語はいつもそっちかもしれない。別に企画を作る側というより、生活している側。一市民としてどういう感情になるか。どういう行動になるかみたいなことはすごく考えます。

そういう時って、これって他の人はどうなんだろう?と気にする人は結構いると思うんです。

そう思うんだったらやめた方がいいです。絶対やらない方がいい。多分、宮崎駿は1ミリもそんなことを思ってないです。ヘザウィックも全然思ってないし、みんなそれが絶対いいと思っている。完全に確信している、自分が「これはつまんねえかも」と思ったら絶対やめるべきです。

自分がですよね。

自分が100パーセントそれに熱狂してないとやれない。逆に言えば、まずは、それだけでいいんです。それを話してみて、何それすごい面白いねと言ってくれる人がいれば、それはやる価値があるということ。

まずは自分自身が誰に何を言われようと、揺るがない絶対的な確信、面白いというのがあればGOだし、なけりゃやめた方がいいと思います。

そうなるまで、ずっと探し続けるんでしょうか。

そうです。だから、あんまり自分から、あれもこれもやりたいみたいなことではなくて、本当にこれは見たいという絵が浮かべば一緒にやる。それがたまたま今20個くらいある感じで、それは5個でもいいし、1つでもいい、0でもいい。

風景を一緒に見る「素敵なうっかりさん」

プロジェクトの仲間探しはどうやるんですか。

仲間集めの時に「説得しない」というのは大事にしています。僕のプロジェクトは割と不謹慎じゃないの?とか、認知症とか、そういうテーマになってくると、そういうことを言ってくる人も出てくるので、そういった時に躊躇がある人とはやらない。

少しでも心配になったりとか?

というより、「何それ、やりたい!」と言っちゃう人を俺は「素敵なうっかりさん」と呼んでいるけど、素敵なうっかりさんとだけやるんです。そうじゃないとなかなか形にならないです。

その素敵なうっかりさんをどうやって見つけるんですか?

普通に喋るだけです。その結果「う〜ん」という人とは、今回はご縁がなかったと思うし、素敵なうっかりさんは喋っていると、途中からそわそわし始めて、「なにそれ!面白い」とかうっかり言っちゃう。それでアイデアとか言い始めるんです。そうなったら、うわーキタキタ、一緒にやろうみたいな。

片っ端から話していくんでしょうか。

誰彼構わずとか、そういう感じじゃないです。むしろ誰に話すかはものすごく慎重に考えていると思う。

どんな人に話すようにしているんですか。

「エピソード」ですね。僕は人見知りで、あんまりたくさん人がいるところにいくのが好きじゃない。気後れしてしまう。だから、人とお会いした時っていうのはめちゃくちゃ貴重な機会だったりするので、その人のエピソードをとにかく覚えておこうと思っているんです。エピソードってすごく豊かだなと思っていて、そのエピソードの中には、その方が大事にしている価値観とか、面白がりポイントとか、いろんな情報が入っているんですよ。

いっくら名刺交換しても、名刺には僕の欲しい情報はほとんど入ってないです。だから、話した時のエピソードをすごく覚えておくようにしていて、そのエピソードと、今からやろうとしている企画を照らし合わせた時に、びたーっと重なるところがあるようなひとは…。

あの人、素敵なうっかりさんになるかなとか。

そう、島田さんだったら、こういうプロジェクトの時には声をかけてみようかなと、思い出したり。エピソードの中に含まれるその人なりの価値観とか、大切にしているものとか、雰囲気や人柄、そういったものが判断材料になるから、「あのエピソード持っていた、あの人のところに行こう」と思って、企画の話をすると割と高い確率で素敵なうっかりさんになってくれます。

実際にdeleteCで、サントリーさんはC.C.レモンからCを消した特別なパッケージを販売してくれましたけど、よく聞かれるんですよ。「あれ、めちゃくちゃ大変だったんじゃないですか?」って。でも全然そんなことなくて。脳内でエピソード検索をして、サントリーのあの人だったらいけるなと思って会いに行った。そしたら、何それ面白いね、とすぐ担当の方に電話してくれました。そして1週間後にデザインができたんですよ。だから苦労は何もしてないです。そういう人から形にしてくれるから、その形を見た次の人がまた面白いとか言って、素敵なうっかりさんの輪がどんどん広がっていく。

1人の素敵なうっかりさんを見つけたら。

1人が熱狂しちゃって形にしてくれるから。そうすると、次に膨らんでいくわけです。

きちんと届ける

いいですね。その後の届けることに関しては何を重視していますか?

届けることに関しては、「動詞」を入れることをすごく大事にしています。例えば、deleteCでいえば、「Cを消す」じゃないですか。動詞です。だから、仮にユーザーが「がんの難しいことはわからない…」ってなったとしても、とにかく「Cを消せばいいんだ」と、すぐにアクションにつながっていくわけです。

よく言われるコミュニケーションの話って、例えば三角形があって、一番下の段が認知を取るステージ、その上のステージにあがるとユーザーの認識を変えて、最後三角形の一番上のステージにいけば行動を変えるんですというのはよく言われます。僕は逆です。行動を起こしてもらいたいから、とにかく「Cを消してください」というアクション、シンプルな動詞を言う。そうすると、まずユーザーはCを消すという「行動」を起こす。で、これって面白いアクションだけど、そもそも何のためだっけ?っていうところに思いが向かって、あぁ、これでがんの治療研究の寄付になるんだと理解してくれる。そうなると「自分にできることもあるじゃん!」という風に「認識」が変わるんです。

がんの治療研究のために「自分には何もできることなんてない」と思っていた人たちが、Cを消すというシンプルなアクションを起こすことで、「自分にもできることがあった!」とガラッと認識が変わるんです。がんに対して自分ができることがあった。アクションは面白いし、自分にもできることがあるって嬉しいし、そうなるとSNSとか口コミでどんどん広がっていく、みんなでこれやってみようよって。そうすると自然と「認知」が増えていく。やっぱり、1番やりたいのって最終的には行動のチェンジなんだから、最初からそっちをやった方がいいじゃないと思います。それも極めてシンプルな行動で、要はCを消してくれとか、おいしいご飯食べに行ってくれとか、そんなので良くて、そこから行動を変えていくと結果的に認知を広げるコストがぐーっと下がる。

シンプルに行動を変えるために動詞に使うということですね。

WHYはもちろんめちゃくちゃ大事ですけど、それは後でもいいと思うんです。SDGsとかもすごい発明だと思うけど、あれを目の前にした人の多くは、ひょっとしたら足がすくんでしまって動けなくなるかもしれない。テーマがでかすぎて、自分にできることってあるのかな・・・って思ってしまうかもしれない。でも、それは恥ずべきことでも何でもなくて、それが普通の感覚だと思うんです。

それがどれだけ正しいことだとわかっていたとしても、人はそんなに簡単には動けない。みんなで力を合わせてがんを治したいんですといくら言っても、わかった。そうしたいよな、みんなわかっているんだ、でもなにをしたらいいの?となってしまう。だから、Cを消してくれ。なんで?これががんを治せる力になるから、わかったと言って、みんなが動いていくという、先に行動、思い切り、かろやかに。そのあとWHYがわかって腹落ちしてくれればいいと思うんです。

まずは行動を変えていく。

行動して、WHYが腹落ちしたら広がるという。人間って納得感がないと、広げる気にもならない。その前に面白さがないと行動は変わらない。自分のやれることがめっちゃシンプルで明確であれば動きやすい。だから動詞が大事だし、結果それが広がっていく感じです。

それが小国さんのパターンですか?

パターンです。他にも色々あるんですけど、大きいのは動詞のことです。

その辺りは今やっている20のプロジェクトのすべてに入ってる考えでしょうか。

そうです。とにかく超簡単な行動で、2020年4月にローンチした「おすそわけしマスク」というのもありますけど、それもお裾分けじゃないですか。動詞です。

あれも企画から実装まで、すごく短かったですよね。

あの時は緊急事態宣言が発出されて、マスク不足が本当に深刻だった。特に福祉現場でマスクが足りなかった。どうやってそこにマスクを届けるか。僕の知り合いの社長が「中国からマスクを大量に仕入れるルートを作れた。でも、マスクを一方的に寄付をするのはだめだ。寄付は自分たちに余裕がある時にはできるけど、自分たちも苦しくなったら打ち切らないといけなくなる。もっとサステナブルな仕組みを考えてほしい」といわれました。まいったなぁと思ったけど、その時に思いついたのが「お裾分け」という考え方です。

ユーザーは55枚分のお金を払う。すると50枚分マスクが届く。残り5枚はどこへ行くかというと福祉現場にお裾分けされる。これなら、売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よしが成り立つから、無理なくサステナブルに続くぞと。

仕組みを思いついてから2日でデザインを入稿して、10日でローンチしました。実はローンチした時にはまだマスクは中国にあって、手元にはなかったんです。だから販売することはリスクといえばリスクだったけど、本当にマスク不足は深刻だし、福祉現場の大変さをなんとかしなくちゃいけない状況だったから、とりあえず予約販売にしようといってローンチした。そしたらあっというまに100万枚ぐらい売れて。結果、全国800施設に40万枚のマスクがお裾分けされました。

それも行動から変えるということですね。

とにかくお裾分けすればいんだと、みんながやるべきことがシンプルだから、買う。それでいうと「Be supporters!」というプロジェクトも同じです。これは高齢者施設に暮らすじいちゃんやばあちゃんが地元のサッカークラブのサポーターになるっていうプロジェクトです。これも要は「サポーターになってくれ」という動詞を言っているだけだから、難しいことは何も言ってないです。だから、ばあちゃんたちもサッカーなんて見たことないし、よくわからないんだけど、ユニホーム着て、タオルマフラー振り回して、サポーターになって、わけわからなかったけど、みんなでわーって応援しているうちに、どんどんのめりこんでいって、今ではめちゃくちゃ推し活をしていると。全国160を超える施設で延べ6000人以上のサポーターが生まれている。

WHYとかは後でいいということですね。

全然あとでいい。とにかくサポーターになってみようよと。そしたら、ときめきとワクワクがどんどん生まれちゃって、結果として健康になっていく。心身がすごく健康になるし、じいちゃんばあちゃんたちがこんな活動をやっている施設も珍しいから、私、そこの施設に就職したいと言って、求人が来たりもする。

結果的に、いろんな介護の問題を解決してくれたりするんですけど、あくまでもそれは「結果的に」っていうのが大事だと思うんです。やっていることは、めっちゃ単純で、サポーターになっただけです。それ以上のことは言ってないです。健康寿命を伸ばしましょう、と言った瞬間に人は動けなくなる。それは正しいんだけど、やっぱり「サポーターになりましょう」と言われたらどうですか?

シンプルですね。

WHYはあとでいい。先にWHYを言っちゃうから、うっ…てなって動けなくなる。逆に言うと、WHYしかないと動きようがないですよ、たぶん。そんなことは改めて言われなくても誰もがわかっているから、それは絶対に大切だし、できることがあるならやりたいし、やった方がいいに決まっているのは100%わかっているけど・・・

みんなが求めているのは、行動。

そうです。その行動が単純であればいいし、時にはバカバカしいくらいの行動の方がよかったりする。

その前に熱狂する風景を捕まえているというのが、1番大きいと。

”原風景”がないとスベっていきます。自分が見たこともない、心も動いてない状態なのに言葉遊びのように企画を作っても、どこかで自分が不安になって、心折れますよ。じいちゃん、ばあちゃんをサポーターにする「Be Supporteres!」って面白そうだね。でも、そんなことじいちゃんばあちゃんやるんだっけ?みたいな。実際、僕も施設の人のところに行くじゃないですか、そうしたら施設の人に言われるわけです。

「おじいちゃん、おばあちゃんは野球と相撲しか見ませんから」って。だけど、僕の大学時代の卒論って「ベガルタ仙台サポーターの民族誌」っていうものだったんですね。サポーターはなぜあんなに熱狂するのかっていうのを、サポーターに密着して記録したものなんですけど、僕が当時見たスタジアムで、じいちゃん、おばあちゃんが飛び跳ねて応援していたんですよ。おー、すげーって。これが自分の”原風景”。スタジアムには赤ちゃんもいて、子どももいて、じいちゃん、ばあちゃんもいて、車椅子の人もいて、いろんな多様な性の人がいて、社長がいて、学生がいて、立場も肩書きも全部関係ない、みんな等しくサポーターなんですよ。これってまさに共生じゃないですか。インクルージョンな社会じゃないですか。その当時はもちろんそんな言葉は知らないし、全然わかってなかったですよ。でも、僕はとにかくあの時の風景がめっちゃいい風景だなと思ったし、そのことは20年以上たった今でもはっきり思い出せるくらいで。だから、野球と相撲だけじゃないよ、だってじいちゃん、ばあちゃんばっちり飛んでたし、みたいな風に思える。”原風景”って大事なんですよ。

だから施設の人に何を言われても、やりましょうよって言えるわけです、僕は確信してるから。

小国さんの中では確信があるんですね。

あります。それがスタートです。そこから「Be supporters!」が始まるんです。ある施設の職員さんがばあちゃんにユニホーム見せて、「着てみる?」って、そしたらばあちゃんが「うん」って頷いて素敵なうっかりさんになってくれて、ユニホーム着たばあちゃんの姿を見た周りのじいちゃん、ばあちゃんが「あら、いいわね」「私もやってみるかね」ってまた素敵なうっかりさんになって、それを見た他の施設からまた広がる。

原風景を自分で捕まえて、まず1人の素敵なうっかりさんを見つけるということがめちゃくちゃ大事ですね。今その20くらいのプロジェクトやっているんですか。それで全部ですか。

さすがに全てでしょう。それ以上やったらぶっ倒れます。その中には仕事じゃないのも入っています。deleteCとか、注文をまちがえる料理店とか、そういうのは仕事じゃないので、お金は一切発生しない。

自分の活動として?

趣味みたいな感覚でやっています。

その、お金が発生するものとしないものの違いというのは何ですか?

あんまり考えてないですけど、お金はもらわないです。純粋にやりたいからやっているだけで。

イノベーションを起こすバランス感覚

僕の中のバランスみたいなものがあって、仕事だけにしちゃうと、結構苦しくなるから20パーセントくらいは、何の利害もないものを持っておきたいんです。Googleの20パーセントルールじゃないですけど、あれは就業時間の中の20パーセントを自由に使っていいよという仕組みでしたよね。その結果イノベーションが生まれたりもしますよと。それと同じで、僕も自分の人生の20パーセントくらいはそういうことに使うと、自分の人生にイノベーションが起きるかもしれないなと思っている。

とはいえ食べていくことも必要ですね。お金とはどういうふうに向き合っているんですか?

うーん、企画を考えて、こんな感じですと言ったら、それ面白いですね、わかりましたと言って、予算を用意してくれます。最初は大体なにもない。予算ありきで考えることはほとんどないです。

いくらかけるとか、そういうのもないんですね。

金額にこだわりはないです。もちろん、生きていかなきゃいけないので、ちゃんと対価としてのお金はもらっていますし、僕の感覚としてはそれなりにはもらっていると思います。でも、お金はもちろん大事なんだけど、それよりも相手が本気かどうかの方が大事です。相手が本気じゃない、なんとなくやらなきゃいけないからやる、みたいなつまらない仕事のために絶対に1年とか使いたくないです。つまんない仕事って、途中でつまんないことがいっぱい起きるから。それは時間の無駄だから、そういうのはやめます。

小国さんと話していると、自分にも社会にもピュアネスだなと感じます。

それは時々言われるんです、子どものようだと。でも、それは病気になってから明確に変わったんじゃないかなと思います。33歳の時に心臓病になって、死にかけて、番組を作るディレクターをやめなきゃいけないってなるまでは、もちろんサラリーマンとしていろんな忖度もあるし、たくさん気を遣いながら働くわけです。僕もそうでしたけど、ディレクターたるものテレビ番組を作らなきゃ仕事したことにはならない。当たり前です。そう思っていました。だけど待って、そもそもテレビというのは語源は「Tele-Vision(テレ・ビジョン)」じゃん。Tele=遠くにあるもの、それを映す=Visionなんでしょ。だから、アマゾンに行ったり、宇宙に行ったり、エベレストに行ったり、深海に行ったりしているんでしょ。人の心だってTeleだし、社会課題だってTeleなんでしょ。

この箱の中で表現することだけがテレビじゃなくて、誰も見たことがない風景とか、誰も触れたことがない価値を形にすることが俺たちの仕事じゃんと、心から思ったんです。だとしたら、注文をまちがえる料理店もテレビジョン。deleteCもテレビジョン。自分の中では、NHKにいた時も、卒業してからもずっとテレビジョンをやってる。

テレビ活動ですね。

テレビは、誰も見たことがない風景を撮ってきたんでしょ。作ってきたんでしょ、一緒じゃんと。表現をテレビという箱の中でやるもの一択にしちゃう必要ってあるんだっけ?というのが僕が病気になってテレビディレクターとしてのキャリアを強制的に終了するしかなくなって、キャリアの階段を降りてみてはっきりと気づいたことです。

小国さんの場合は病気というきっかけがあったから降りられたけど、もやもやしてるのに降りたいけど降りられない人は、どうしたらいいと思います?

例えば、社外活動とか副業とかよく言いますけど、まさに人生の20パーセントや、就業時間の20パーセントでもいいと思うんですけど、まずは、はみ出してみるのがいいんじゃないかなと思います。半歩でも1歩でもはみ出してみるというのを、自分の時間の中で作れると視点が変わります。まず自分がいる場所の素晴らしさに気づくし、ポテンシャルも感じる。外の世界も見れるし、すごくいいことがいっぱいある。

でもね、いきなり飛び出しちゃうと危ないです。「会社辞めます!」と言うと勇ましくてカッコいいかもしれないけど、後戻りできないから。それを言うとズルいと言われるんですけど、ズルくていいと思っていて。死んじゃうのが1番良くないから。まずははみ出して、ちょこっと行ってみて、ここまではいけるわ。こっちも行って、ここも行けた。でも、こっちは危ないとか。戻る場所は常にあって、それを繰り返していく中に、だんだん自分ができること、やりたいこと、この組織にいてできることも増えてくる。

興味深いです。最後に、これから小国さんがやろうとしていることとか、大事にしていることも聞いてみたいです。

普段の暮らしの中の”営み”を作りたいと思っています。例えば、deleteCもそうなんですけど、キャンペーンではない。本当に普段の暮らしの中に普通にCが消えているCCレモンがあったとか、それを買うと、がんの治療研究に繋がる。これが”営み”じゃないですか。

その時だけの派手なキャンペーンも大事ですけど、それよりは、買い物をするとか、ご飯を食べるとか、音楽を聴くとかスポーツを見るとか、普段の”営み”の中にどうやってアクションを練り込んでいくかを考えていきたい。みんなの暮らしの中に練り込まれる”営み”になっていくことが1番のイノベーションだと思うから、注文をまちがえる料理店みたいなことが普通にいろいろなお店で行われて”営み”になっているとか。そういう”営み”をどうやって作っていくか、ということが1番力強いイノベーションだと思っていますし、僕のやりたいことです。

真っ直ぐで落ち着いた視線。質問に対して、惜しげなく自身のエピソードを話す冷静な語り口からは、前のめりがビシビシと伝わってくる。現在20ものプロジェクトに携わる小国氏から受け取るのは大きな「動」のエネルギーである。彼の活動は一過性のものではなく、営みへと続いていく。今後も小国氏の活動に注目していきたい。

Information

SHIRO_OGUNI

小国士朗(おぐにしろう)2003年NHK入局し「クローズアップ現代」「NHKスペシャル」「プロフェッショナル 仕事の流儀」などの番組を担当。33歳のときに発症した心臓病をきっかけに番組制作を断念。以降、ディレクターでありながら番組を作らず、プロモーションやデジタル施策を企画する働き方を開始する。150万ダウンロードを突破したアプリ「プロフェッショナル 私の流儀」の開発や世界150か国以上に発信された、認知症の状態にある人たちがホールスタッフを務める「注文をまちがえる料理店」などヒット企画を実施。以降、自身の価値を「“素人”の目線を持つこと」とし、精力的にプロジェクトを企画。近年の主なプロジェクトに「deleteC」「丸の内15丁目プロジェクト」「Be supporters!」などがあげられる。

Translate »