Talent No.5

YUU_KUNIYOSHI
Denim Craftsman

  • #遊んでいる感覚に近いですね
  • April 9th, 2020
Profile

1972年沖縄生まれ。高校を卒業後、両親に促されアメリカに滞在。滞在中に古着の面白さに目覚める。帰国後アメリカで出会った友人のの誘いでジーンズの本場”岡山”での10年に渡る縫製修行を終えて、故郷の沖縄市に戻り、2008年にデニム工房「Double Volante(ダブルボランチ)」を立ち上げ、岡山で培った高い技術を生かして世界に1つしかない、美しい一本のデニムを作り上げている。工房名「Double Volante(ダブルボランチ)」は、オーナーの國吉さんが好きなサッカー用語が由来となっている。また、Volante(ボランチ)は舵取りの意味があり、「お客さまと2人で舵を取り1本のジーパンを仕上げていきたい」という想いから命名。

高校卒業後、望まぬアメリカへ

高校卒業後にアメリカに行きましたけど、自分は行きたくなかったんです。それまでサッカーをずっとやっていたので、学校の先生になりたくて大学を受験したんですが落ち、うちの親が県外に仕送りするよりもアメリカに行った方が安くつくという事で、当時いとこが住んでいたアメリカでも行ってこいって言われました。

親にも「行きたくない」って言ってて「じゃぁ3ヶ月だけ」っていう約束で行ったんですよ。最初は全然勉強に身が入らなくて大変でした。

アメリカで岡山のジーパン製造会社の社長の息子と友達になって、服にのめり込んでいきました。それまでも服は好きだったんですけど、より服が大好きになっていきました。古着が安かったのであの時は業者並みに持ってましたよ。親が一度アメリカに来た際に「業者か!」って言われるくらい持っていた時もありましたね。

小遣いのほとんどを服につぎ込んでました。アメリカのリトルトーキョーが車で1時間ちょっとの場所だったんですよ。そこではなぜか東京より1日早く少年ジャンプが売られていて、友達から電話がかかってきた時に、自分が先回りしてドラゴンボールのあらすじをパッと喋ると次の週電話がかかってきて、「お前が言った通りになった」「じゃ次も教えるか」とか言って。勉強はしないでたくさん遊んでばかりいましたね。

帰国後念願の大学に合格しかし東京・岡山へ

自分は結局二十歳でアメリカから帰国しました。毎日服買っているのも親に申し訳ないし、学校の先生になりたい気持ちは残っていて、沖縄へ帰って地元の大学に入り直したんです。だけど入った瞬間になぜか教師の夢が冷めて、どうしようかなって思っていた時に岡山の友達から声を掛けてくれて。当時その友達は東京に住んでいたので「岡山の前に東京に一緒に住もう」って言われて、その流れで東京で寄り道して岡山に行ったんです。

東京の広尾で家賃9万円の部屋で、友達と家賃を折半して2年間住んでたんですよ。朝は立ち食いそば屋、夜は週3回でバーで働く日々。あの時は多分、一番稼いでたんじゃないですかね。多い時で三十数万とかで、渋谷で稼いだお金を渋谷で古着に使っていました。本格的に服が大好きでしたね。

ー2年間東京で過ごして、その後で岡山に?

岡山は25歳の時ですね。友達は修行で6年ぐらい東京のアパレルにいたので岡山へは自分だけ先に行きました。そこがジーンズ制作の始まりですね。

岡山のジーンズ工場で10年間の修行

岡山にいたのは1997年8月31〜2007年8月31日まで10年間ですね。入る時に「いつかは帰る」って社長に言ったら「10年はやれ」と言われたんですよね。途中で挫けそうになる事もあったんだけど、10年はいるって決めてました。

ーなぜ挫けそうになったんですか?

田舎なので人間関係が濃密なせいかイジメとかあるわけなんですよ。後は「10年って言ったからには、10年やらないと」と思ったのと、「社長の息子の友達は根性なかったな」「沖縄の人間はすぐ帰ったな」とか言われるのはちょっと癪だったので頑張りました。

ーその後はすぐ独立ですか?

すぐに独立しました。その当時は現在の形態では考えてなかったんです。古着屋をやりたくてその為にジーパンを作れるくらいの知識はあった方がいいかなと思って、岡山の工場に入ったんです。ジーパンは作れるようになったんですけど、東京に行ったのも合わせて13~14年間沖縄から離れていたんで、沖縄の事情とかも知らないし、古着もだんだん下火になってきているというのもあって、「小売店はちょっときついかな」というのがあったんですよね。

岡山で死ぬまでずっと働くっていうのは想像出来なかったんですよ。それでこういう感じでジーパン作って売ったら、ご飯ぐらいは食べれるかなと思ってやったのが最初です。

ー面白いですよね。店舗を構えずに完全受注のスタイル。

最初は既製品を売ろうと思っていましたが、お客さんによってはちょっと沖縄らしく作ってくれという人がいたので、だったら個別に作っていこうかなと思って。若いから後先考えずにノリで発進しました。あの時は自分が35歳だったんで出来た事ですね。

岡山から帰る時に「沖縄でジーパンはできない」とか色々言われて、沖縄に帰ってからもこっちの社長さんとかに、「場所が悪い」とか「ジーパンは売れん」とか言われました。逆にそれがモチベーションになりました。それまでは自分は褒められて伸びるタイプだと思っていたけど叩かれても伸びるんだなと思った。あの時は物凄く腹が立ったんですけど、今はちょっと感謝しています。

ージーンズの業界でも1人でやるのは結構珍しいんじゃないですか。

「効率的にもったいない」「受注して岡山で作らせればいいのに」「誰か雇うのか」とか言われましたね。1人でやってきた理由は、自分のやりたいように出来るっていうのもあるじゃないですか。工場だとムラだったり、自分はキレイに縫ってるのにミスが出ると全体責任じゃないですか。「キレイに仕上げよう」とか言うんですけど、やっぱり面白くないというのはありましたね。

自分の責任で全部を背負った方が、言い訳が出来なくて面白いかなって思いました。

出会いの楽しさ

ー実際僕も長いお付き合いで毎年ジーンズを作っていますけど、最初のヒアリングでライフスタイルから最近の状況を國吉さんに聞き頂いてそれに合わせたジーンズを作ってもらっています。

工場にいる時ってお客さんの顔って見えないじゃないですか。たまに街に行ったら、自分たちの工場で縫ったパンツ履いてるってなったらテンションが上がるんですよね。

今は個別に反応が来るから面白いですよね。自分は元々ヴィンテージ系のジーパンが好きだったんですけど、ヴィンテージってもの凄い狭いカテゴリーにいた自分を、お客さんが広げてくれてるみたいな感じでこんな事を考えてるんだとか。お客さんと話すのは新鮮ですよね。本当に全然ジーパンを分からない人もいっぱいいるし。

岡山にいた時は同じ工場で同じ人と同じ物ばっかり縫ってるのを10年間やってきたんで、人との繋がりって全然なかったんですよ。本当に新しい出会いのない10年で不安もありましたけど。

ーどんな不安があったんですか?

自分は名刺もなかったんですよ。メーカーさんの人も分からないし、やっぱり人脈がないっていうのがネックになるのかなとか色々と最初は考えるわけですよね。そういった意味でも最初は不安がありましたね。十数年も沖縄を離れていて、沖縄の事情も人も知らないみたいな感じで。そういう不安は結構大きかったですね。

実際にやってみたら思ったよりは仕事に恵まれているっていう感じですね。最初は新聞に載せてもらったんですよ。物珍しいからですよね、そしたらテレビとラジオの取材も来てそこから徐々に広がっていきました。自分が発信しているのはブログぐらいなんで、周囲に広げてもらった感じですね。

いつもお客さんに聞く事は「なんでうちのこと知ってくれたんですか?」とか必ず聞くんですよ。本を見たとか、動画見たとか、あそこから知ってくれるんだと参考になります。今でも必ず聞いてるんです。

ー実際に高校生も自分のお小遣いでジーンズを作りに来てくれたり。

あれは感動しましたよ。5年程前に来た高校1年の子が、「ジーパン作りたい」って言って来たんですよ。今ジーパンっていったら若い子はユニクロとかで、来てくれた事がものすごい嬉しくてその子は今、専門学校の2年生になって奇遇にも岡山に住んでます。誕生日が7月だったんで、1本目は正規の値段をもらって、もう1本はプレゼントしたんですよ。今もInstagramで繋がっていて、ちょっとチャラくはなってるんですけど(笑)

バラエティに富んだ客層

ー他に印象に残っているお客さんはいますか?

いわゆる裏社会の人も来ましたし、オーラが違いますね。こんな話して大丈夫なんですか。イタリアのスーツを着ていてスーツが分からない人でも、この生地高級って分かるぐらいで、でも物腰がすごく柔らかくてなんか普通の人じゃないんですよね。ジーパンを取りに来た人は社員だっていうけど絶対にあれ舎弟なんだと思いましたね。その人は分かりやすくセカンドバッグを持っていて「ジーパン取りに来た」とか言ってたんですけど、やっぱり上の方になると口の利き方とか丁寧なんだと。あのオーラはちょっとゾクッとしましたね。

ー又吉さんも人が来てくれる事が嬉しいって言ってましたね。
※又吉さん:金細工またよし7代目、國吉さんとは親交が厚い

人が来てくれると嬉しいですね。岡山とやっている事は基本的に同じなんですけど、岡山と違うのは色んな人と会えるんですよ。

ーそれがジーンズ作りにも反映されるんですか?

「動きやすいのがいいのかな」「シャツよりもう少し細くしようかな」「だけど重い物とか運ぶから、ゆったり作った方が動きやすいかな」とかジーンズを作る時に考えたりはしますね。

島田さんみたいに「ジャケットにローファーとかキレイ目でやるんだったら、もうちょっと細くした方がシュッと見栄えがいいかな」とか。「Tシャツで合わせるのはこんなんがいいんじゃないですか」とかそんな提案をしていますね。

直接お客さんと触れ合えるというのが大きいですよ。本当に面白いですよ

1人で切り盛りする制作のスタイル

ー生産本数は年々増えてるとは思うんですけど、今は年間どのくらい作ってるんですか?

個人でいうと、去年が170本くらい。メーカーは300~400本くらい。1日1本以上は仕上げていると思いますね。やり方もバラバラで、朝から夕方までメーカーのやって、夜はお客さん。1日目メーカーやって、次の日はお客さんのとか。

その時によって変えてますね、縫いながら接客もするのでやり方はいつも変えてるんですけど、大体いつもこんな感じ。1ヶ月に15~16本たまに5本とか、できない月もあったりで1年通したら大体170本とか。今年はまだちょっとペースが遅くて6ヵ月で70本くらい。大物が結構入ってきてるんで、それをやりながらですかね。

コロナの影響と今後の展開

ー世間も色々ゴタゴタしてますけど、そういった影響とかもありました?

ありました。うちは個人のお客さんで言うと6~7割が県外の方なんです。何人か県外のお客さんはメッセージくれて注文くるんですけど、旅行のついでにうちに寄るっていうのが2月の後半くらいからもう全然いないんですよ。

だからちょっとやり方は変えないといけないのかなって思いながら。今まで物産展に出店していたんですけど、今年は全部無くなったので、いつ無くなってもおかしくないなっていうのを頭に入れておかないと、それをあてにしてたら結構大変になるなと思って。

ーでも、ファンは多そうですよね。もうずっとやってきて。付き合いが長いお客さんも多いんじゃないですか?

付き合いが長いお客さんは多いですね。若い子は少ないんですよ。今ジーパンはおっさんが穿くものみたいなイメージがあるのかなっていう感じで、客層を見ると30代から上ですね。たまに20代とか来るんですけど、本当に稀ですね。30~40代がメインでサラリーマンの方が多いのかな。

今まで13年間やってきて、よそのブランドのオリジナルパンツを作ったりとかはやってきたんですけど、うちのオリジナルパンツってないんですよ。これを今年の課題っていうか、ある程度下準備をして来年の頭にそれを出そうかなって思ってるんですよね。

皆が皆こっちに来てオーダーだけじゃなくて。「既製品ないんですか?」っていう人もいるんですよ。そういう時に今まで無いって答えてたんで、その辺はコロナの事とかもあって、ネット販売をどうしようかとか、知り合いのお店に置いてもらおうかとか、今ちょっと考えている途中ですね。

時代の変化に合わせていかないと、自分の強みって1人でやってるから柔軟だと思うですよ。その辺はやっぱりもっと柔軟にしていかないといけないなと思っています。

沖縄ならではの難しい価格設定

ー前に國吉さんとお話させて頂いた時にすごく印象的だったのが、「オーダーのジーンズだからいつも5万とか10万とかするかと思ったら、結構リーズナブルだった思った」と言った時に「たかがジーパンだからみたいな…」

それもあるんですけど、本当のオーダーメイドってちゃんと採寸して型紙作って、それから一本仕上げていくんだったら、5~6万取らないとやっていけないんです。けどうちはイージーオーダーなんで、割りかし簡単に試着してチャッチャと済ますので値段を抑えられているんです。

沖縄の所得って本土に比べたら、差が歴然としているじゃないですか。そんな中で服の値段って東京と一緒なんですよ。沖縄の人って服とか、 T シャツとか買うにしても、本土の人よりものすごい頑張って買ってるから。あんまり安くもできないんですけど、あんまり高くもなぁ…っていうのは頭を過るんです。

ジーパンはだいたい既製品で2万5~6000円くらいっていったら沖縄の人からしたらちょっと高いと思うんですよ、だけど安くても勝負はできないんですよ。原価も高いですし、なにかうちらしいもので勝負していかないといけない、毎日その辺を考えるんですよ。この辺の値段に持っていったら高いよなとか、だけどこれだけはないと回していけんとか。どうしようかなぁーと試行錯誤しながら。

自分らしさについて

ー又吉さんは國吉さんの事を「本当の職人」だって言ってましたけど。

いやいやいや。そんなことないですよ。

又吉さんは7代目でずっとそれをやってきてるじゃないですか、だから次はどうするのかなって思って。自分も自分の事を考えないといけないんですけど、又吉さんの仕事は沖縄の文化なので誰かずっと続けていけていく人が出て欲しいと思うんですけど。

ー國吉さんは物作りに自分らしさを出そう、出したいとかそういう事はあるんですか?

どっちもどっちですね。自分らしさをあんまり出さないようにしているんですけど、多分出てはいるんです。メーカーの場合はあんまり自分らしさがしゃしゃり出ないようにはしていますがその辺が難しいですけどね。

ー國吉さんは後継とか考えてないんですか?

ないですよ。自分はもう自分だけでやって終わりですね。ジーパンってやってること地味なんですよ。本当にもう地味な作業の連続です。

岡山にいた時はまるで刑務所にいると思っていました。結局朝から晩までやること一緒じゃないですか。好きで入ったんですけど触りたくもないと思って2~3年くらい全然服を買っていない時期がありましたね。今もそうなんですよ、ちょっと気分転換で那覇へ行って古着屋とか覗くじゃないですか。そこで「これの縫い方が下手くそ…」とかどうしても仕事の延長になるんですよね。

だからサボっている時は服屋に行かないようにしてるんです。釣りとかまったくジーパンとは関係ない趣味を見つけたいなーと思ってて、趣味が仕事になったみたいな感じなんで、たまにやっぱりしんどいですよ。「辞めようかな、なんで公務員にならなかったのかな」とか勝手な考えも浮かぶんですけど。

そのイヤがっていた刑務所みたいな所から、ステッチの面を大きくしたり小さくしたり表情が変わっていく楽しさを知ってからは、単純作業も楽しくなったんですよ。「多分これ自分しか分からんなー」って思って。

又吉さんも一緒だと思うんですけど、やり方がちょっとだけ変わる感じなんですけど、全体のイメージも変わると思っているんですよ。そうなった時にさっきの自分らしさじゃないですけど、それをここに込めればいいかなと思います。

目に見えるデザインじゃなくて、ちょっとここはこういう風にやってるというのは、あんまりおおっぴろげにしなくても、さりげなく入れたらいいかなとか思っています。それは今も続いているんですよ。8ミリのステッチを7ミリにしたらどんなかなとか。今まで太い糸を使っていたけど、もう一つ細くしてみようかなとか。

そうしたら弱々しさが出たり、逆に力強さが出たりとか。ジーパンもやっぱり強度が命なのでなるべく破れないようにするのは全部太い糸で縫えばいいかっていうと、のっぺりしてくるんですよ。細い所でちょっと弱々しく見せたら、他は全体的に陰影がつく。それにハマッたら面白いですよ。

ー日々追求されて

追求…そうですね…。これはもう遊んでいる感覚に近いんですよね。でも“追求”って表現の方が職人っぽい感じがしてかっこいいですね。

ー國吉さんは名前が「遊」なので名前の通りですね。

一つのメーカーさんから頂いた仕事って責任が伴うじゃないですか。仕事に追われたりとか、きちっとした物を作らないといけないけど遊んでる時の楽しさとかって出てるかなとか。

「イェーイ、楽しいー!」とかっていうんじゃなくて、責任も伴ってそれでもなおやってる仕事が楽しいとはまだなっていなくて、まだまだだなって思っています。楽しい時ってやっぱり全然苦にも思わないみたいな力が出るじゃないですか。まだその域に達しないのかなとか。1人だから考える時間は結構あってやっぱり考えていますね。

ー又吉さんは対話だって言ってましたからね。

自分もそれに近いものはありますね。又吉さんと話をしていて、又吉さんはお父さんの叩いていたリズムとか、あれ、ミシンも一緒なんですよ。下手な人が使うのと、上手な人が使うのではミシンの音が全然違うんですよ。大工とかでも、たとえばハンマーで打つ音とか、ノコギリで切る音とかも一緒だと思うんですけど、上手な人ってリズムがあるんですよ。

岡山にいた時の上手な人のミシンの音は全部覚えてるんですよ。岡山の人をバカにするわけじゃないですけど、物言いが荒いんですよ。おばさんも職人なんで手取り足取り教えないんですよね。縫ってる時に「ここでストップしてるんだなぁ」とか耳で覚えていくんですよ。ここで止まってる時にはこの手さばきしてるんだとか

上手な人の音は自分が夜に工場に残ってジーパンを作ってる時の音と明らかに音が違うんですよ。それをトイレ行きながらちょっと見たりして工夫をして、自分も出来たとかあの音はまだ出せんなとかやっていました。今でもミシンの音はよく覚えてますよ。良くも悪くも10年同じ事をやってたから染みついてるんですよね。

Information

YUU_KUNIYOSHI

1972年沖縄生まれ。高校を卒業後、両親に促されアメリカに滞在。滞在中に古着の面白さに目覚める。帰国後アメリカで出会った友人のの誘いでジーンズの本場”岡山”での10年に渡る縫製修行を終えて、故郷の沖縄市に戻り、2008年にデニム工房「Double Volante(ダブルボランチ)」を立ち上げ、岡山で培った高い技術を生かして世界に1つしかない、美しい一本のデニムを作り上げている。工房名「Double Volante(ダブルボランチ)」は、オーナーの國吉さんが好きなサッカー用語が由来となっている。また、Volante(ボランチ)は舵取りの意味があり、「お客さまと2人で舵を取り1本のジーパンを仕上げていきたい」という想いから命名。

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