Talent No.14

YU_KUROSAKA
Contemporary Artist

  • #「見分け」を「眺め」るトレーニングを
  • March 5th, 2024
Profile

黒坂祐(くろさかゆう)1991年、千葉県習志野市に生まれ。ファッション、音楽などを愛する大人たちに影響を受け、芸術を志す。2019年東京藝術大学大学院を卒業。現在は絵画を制作の中心として据え、自身の2型2色覚を出発点とした認識世界への深い考察を行う。主な展示実績に、「project N 87 黒坂祐」(東京オペラシティアートギャラリー、2022年)や「荒れ地のアレロパシー」(三越コンテンポラリーギャラリー、2019年)などが含まれる。2019年にはシェル美術賞グランプリを受賞。

アートとの出会いから、最近やっと明らかになってきたという自身の作家としての社会的な役割に至るまで。自身が個展を行った南青山febgallerytokyoにて語ってもらった。

興味の先にあった、現代アート

ご自信のアイデンティティはどんなところにあるんですか?

本当にすごいシンプルな欲で言うと、自分自身が興味を持てるものに出会うことが好きなんです。全部大げさになっちゃうんですけど、生きてる意味があるというか、生きててよかったというか、今までにないものとか自分が知らなかっただけで新しいものに触れた瞬間とか。なんかアートとか関係なく、昔からそういうものに触れた瞬間が好きだったと思いますね。

なるほどね。それがアイデンティティ。

だからアートがやりたいって感じじゃなくて、なんか面白そうな方に興味を移していったら今、って感じですかね。

僕も栃木県の真岡市という田舎生まれで、小さい頃から虫や動物が好きでした。
レイチェルカーソンのセンス・オブ・ワンダーも好きです。自然から学んで新しいものに触れる喜びを感じる。
黒坂さんにとっての原体験というか、新しいものに触れたときの一番古い記憶ってどんなものですか。

一番古いものだとなんだろうなー。難しいっすね。何だろうなー…。

なんか、音楽かなー。

高校生とか中学生のとき、日本のポップ音楽がすごいずっと好きだったんです。あんまりその、メジャーシーンじゃないものは聞いていなかったんです。でも当時、オルタナティブと言われるような感じのバンドとかに触れたり、、っていう体験が最初になるのかなー。自分でこう調べたり、自ら面白がって能動的になった初めての体験なんですよね。

例えばどんなバンドですか。

当時、残響レコードっていうインディーレーベルを聞いてたりしていて、今は全然聞かなくなっちゃったんですけど、ちょっとこう掘らないと見つからない、みたいな。

あと、当時千葉県の習志野市の津田沼ってところにいて、総武線の始発終点の駅だったんです。週末とか東京出れちゃう距離なんで、東京の古着とかその辺のカルチャーにはまりましたね。当時高校生だったんですけど、そういうカルチャーが本当にすごい盛り上がってていて、古着屋さんとかに行くと全然話したことない人たちがいっぱいいて。その中に美大生もいたりして、そこで美大っていうのがあんだ、みたいな。本当になんか、その辺の場所に行ってお話していろいろ学んだのが結構リアルな感じだったなーと思いますね。  

そうした場所での出会いが黒坂さんの原点なんですね。

憧れをもったのはそのへんが最初かなー。内容がどうとかその人がすごいとか関係なく、好きなことをやってる感じに漠然と憧れました。他の大人よりかっこよく見えてっていう。

そういう体験を手繰っていった先にあったのが現代アートかな。こんな世界をまったく知らなかったもんだから、なんかかっこよかった。どれも魅力的に感じて、それで美大行こうとかそういう風に選択して、今がある感じですね。

かっこよかった「場所」の存在

今は作品づくりの一方で四谷の未確認スタジオのような場所づくりもされているじゃないですか。そういった原体験がきっかけだったり?

そうですね、やっぱり場所ってものへの憧れがつよかったかな。大学時代にギャラリー兼カフェみたいなスペースが三ノ輪にあって、その近くに僕が初めて個展をやったギャラリースペースもありました。そこは、写真家さんが自主運営されているところだったので、作家仲間が集まって話したりしてて。身近にそういう方たちがいたんですよね。高校生の時出会った古着屋とかレコード屋とか、その辺とはちょっとだけ違うんですけど、似てる。

なんかそういうなんていうんすかね…うーん、場所。いい場所みたいなもの。まあ自分がつくるつくらないはちょっとおいておいて、やっぱり場所が好きってのはあるかなーと思います。

場所とうまくやっていくのが好き

場所のエネルギーとか相性とか縁とかってあるじゃないですか。いろんなギャラリーでやられてきて、ここ(※FebgalleryTokyo)も素敵なギャラリーだと思うんですけど、場所選びに関して黒坂さんが気にすることはありますか。

そうですね、そもそも大学院生のあたりから作品として絵をつくり始めたんですけど、やっぱ自分が想像していないようなところに作品をおくことになるっていうのは、絵が持つ力として結構あるなぁと思ってて。絵がこっちに運んできてくれる感じがありますね。

元からある場所、例えば古くからあるお寺とか、別のルールとか歴史があるところでも自分の絵を持っていくことで自分が関われる。ギャラリーといってもイレギュラーな場所もたくさんありますし、美術館とかも建築家さんの顔が違いますよね。だからこそ、絵をドライに書いておいて、終わりっていう感じはあまりないかなー。

場所のイメージから絵を描くこともあるんですか。

かなりあると思います。絵は展示方法として壁に掛けるとか置くとかってことになる、場所ありきのメディアなので。制約とも言えるけど、逆に場と常にセッションじゃないけど、うまくやっていかないと面白くないんじゃないかなとは思いますね。

興味深いですね。自分の作品に没頭して世界観を完成させる人もいる一方で、黒坂さんは時間や場所、空間も俯瞰して考えて制作をしていますよね。

そうですね、その場にあわせるっていうか、理解していくっていうのがけっこう好きなんですよね。だから、住むところを変えたりするともろに影響が出るタイプです。

常に自分の世界感があって、どんな環境でも均一に自分の世界観をつくろうとはあんまり考えてないですね。なんかあんまり自然じゃないのかなぁ、と。自分のスタイルとしては。

常に外と対話して、移ろいながらやっていこうと。

はい。その「移ろい」にかける時間にも、短い長いがあると思うんですけど、今後は長い時間に挑戦してみたいですね。短くても多分変化はするんですけど、それで終わりにしちゃうともったいないなーと最近思うようになってきています。その辺もちょっと試してみたいんですよね。最近の方向性としては、しっかり時間をかけること。今回の展示のタイトル「15万年」なんかも、そういう感じが出ているのかな。

時間軸を太くとらえてっていう。

そうそう。自分のかけてる時間がまだあまりにも短い、と最近ちょっと感じています。まだ新鮮な感じがあるので、これが馴染んでいった先はどういう感じなのか、そこにちょっと興味があるかなー。

色の見え方

作品を生み出すようになったきっかけや、モチベーションはどういったところにあるんですか。

そうですね、なんかそういうのもやっと最近、しっかり手に入れられたかなって感じで。それまでは現代美術自体が本当に勉強することが多いというか、大学で初めて現代アートに出会って、そっからいろいろ試してっていう時期がばーっと8年くらいあって…。ようやくそのいま、その自分の色の見え方の問題に遠回りして一周してかえってきたみたいな感じで。今はそのことについて実験したり話したりするのが、なんかつくろうかなっていう気持ちにつながっています。

色の見え方っていうのはテーマになってきています。色の見え方が違うアーティストっていらっしゃるにはいらっしゃるけど、そこまで強調して一生つきあってこうという姿勢をもっている事例ってあんまりないんですよね。色の見え方が違うっていうのはまあ少数派で、そういうエピソードのある絵は公式にはほぼないこととされてる。まあ歴史上では自分と同じ見え方のアーティストはいたとは思うけど。だから、そこは自分がやる意味とか、やりがいとかにつながってるかなと。

モチベーションになっているんですね。 色の見え方とか世界のとらえ方って、黒坂さんの中でどういった解釈があるんですか。

基本的には、みんなとそんなになんも変わらないっていうスタンスで。でも厳密にいうとすごく違いはある。細胞がやっぱりないっていうことなんですよ。色覚に関する一番の問題としては、自分たちの色覚用に世界が出来てないっていうことで違いが生まれてきちゃってるってことかなと思います。

そうですね、与えられた記号をどう運用してるかですもんね。

本当に。例えばサルの色覚ってすごく研究されているんですけど、自然界にいた場合っていうのは、人間が抱えている色覚の問題とはまったく違っていると思うんです。もしかしたら問題にならないこともあるかもしれないし。優劣の順番ももしかしたら逆転してるのかもしれないし。

犬や猫も最新の研究では違ってますけど白黒で世界が見えていると考えられていたり、牛や馬もモノクロに近い見え方と言われたり、蛇は熱を感知して認識していたりしますよね。

そうですね、そういうのが世界に混在してるってことを知ると、いま生まれているエラーって、文化とかコミュニケーション能力の高さゆえになのかなって感じがしたり。

だから見え方というか、どうやってとらえるのかっていうのをちょっとこう解釈を拡大しようっていうことをしていて。一回拡大してみて、優位っぽい人の扱い方ってのを、ちょっとこうほぐしたい、というのは今やろうとしてますね。

アマゾンの奥地に住むピダハンという少数民俗をご存知ですか。彼らには右とか左とか、過去と未来とか、男とか女という「言語」がないらしいのです。言語がないので概念がない。さようなら、こんにちはみたいな人間関係を維持する言葉もないし、数もない。今まで取り上げてきた色もないんですよ。僕らにとって当たり前の区別する概念がない。だから彼らと僕らが見てる世界は、同じものでも違うように見えていると思うんですよね。

うんうん。やっぱり世界によって違うし、一説だと文化の発展具合によって色の数も増えるらしい。だからやっぱり、細分化していく必要っていうのがなにかしら出てくるんでしょうね。でも、それって必要なのか。能力があるから限界まで見分けようとするっていうか…そんなにやんなくてもいいかもなーっていうか。そんなことを考えてますね。

有名な話ですが虹は5色、3色、2色に見えるといわれている国なんかもありますね。日本や韓国、イタリアなんかではは7色に見えると考えられていますが、ドイツや中国なんかは5色、南アジアのバイガ族やアフリカのバサ語族は2色。同じアフリカでもある部族には8色に見えるらしいですね。

ああ、自分とかが虹をみても、3色ぐらいにしか感じないです。だからこれって7色っていう前提を知識として持ってるもんだから、7なのに3しか見えてないなっていう思考回路になってしまうんですよね。もし虹は7色っていうものがなかったら多分、もっと素直に虹っていうものを感じ取れる。 主体性っていうかはわかんないですけど、自信を持って言えるんですよね、3色だと。色ってけっこう固定して共通言語として使われてるんで、けっこう疑問には思います。

眺めと見分け

実際にどう見えてるかっていうのは文化的な背景、歴史、コンテキスト、コミュニティによっても変わってきますよね。実際にどうなのかは定かではないですけど、イヌイットは雪を100通りに呼び分けるなんていう通説があります。それは彼らにとって雪がすごく重要だからですよね。

まさに。現代人にとっての色は、どういう位置づけなんだろうということになってきますよね。イヌイットにとっての雪っていうほど必要なものではないのであろうし、なんか不思議なんですよね、色。使おうと思えば使えるし、どうでもいいと言えば切り捨てられるかもしれないし。アートもそういうものとして扱われがちです。なんかね、その必要とか必要じゃないとか、どこまでやるのかですよね。

うーん、でもあんまりちゃんと名言したり、国が時間取ってやることでもないから、やっぱりアーティストとかが対応していく意味は結構あるのかな、とか。

黒坂さんは「眺め」ということを一つ提案されていますが、「眺め」に至った境地とは?

まず最初に自分の中で、色の使い方とかとらえ方の基本的なやり方を「見分け」っていう定義づけをしました。それに対して「眺め」って、もともとの意味で言ったら風景を高いところから眺めるだとかって事ですが、生きるために必要のない見るっていう行為が「眺め」だなと思って。色をその視点でみたら、絵とかそういうものはどういう姿が眺めであるんだろうか…っていうのを最近ちょっと試してやってみていて。

例えば、わかりやすく色を塗らない部分を作ったりとか、ここがこの色だよねってあんま言えないように作品をつくってみたり、視点を定めないようにしてみたりだとか…。やり方はいろいろ考えられて、それを一つずつ、確かめながら試していく感じで「眺め」をやってます。

境界を曖昧にすることで本来性というか、本質性というか…実は自分たちが色眼鏡に囚われていないかというメッセージを感じます。

危険な場面であるとか、見分けが必要な部分ももちろんあって。でもやっぱり、それに頼るがあまりに必要のないところでも見分けの視点でみちゃうと良くないので。対立概念をちょっと自分がわーわー言って盛り上げて…これはこうでいいかな、とか。その視点の選択ができるのはいいなと思うんで、いわゆる色弱と言われている側からしたらけっこう必死にやってることではあるんです。

例えば画材屋さんとか行ったとき色を見るタイミングがあるんですけど、そういう時に嫌な気持ちになりたくないので、本人としてはそういう自分が居心地よくいたいっていうモチベーションもやっぱりあります。あんまり社会のためにこういう提案してますって、まあそういう部分も少なからずあるけれども、やっぱり自分の実感としてあんまり嫌な思いをしたくないっていうのは強いっちゃ強いなぁ。

それで眺めっていう概念が登場した、と。今回の個展では映像作品もありましたね。

はい。今回展示している映像作品は、同じ場所で違うふたりがこっちに向かって歩いてくるという内容です。ふたりは最短の距離で渡ってください、と同じ指示を受けて歩いているのですが歩き方が違う。他者がいないことで、同じ最短ルートという指示に対して別々の歩き方をするんですよ。

つまり、本当は各自にとって必要のある見分けがあって、それを他者としては推し量るしかないし、そこに関与する必要もそんなにないのかもしれなくて。だから、作品としては「見分けを眺める」っていいう。結局「見分け」っていうものを排除することは出来ないし、排除してもよくないことが多分起こると思うんです。肯定も否定も出来ないような状況をただこう見るっていうのが出来ないかなと思いました。

見分けと眺めの共存があるんですね。

芸術の世界での話と、実際に危険も伴うような生活空間、場所で自分の考えを実行したときっていうのは、うーん。どれほど…

…どれほど、机上でなくて現実に対応しうるのかみたいな。映像だとやっぱりそういうことができますね。絵でまだやれてないことがたくさんあるので、可能性があるうちはやっぱり絵は描き続けたいです。一方で、絵じゃなきゃいけないっていう事でもない面もあったりもするとは思います。

単に作品を追求する芸術家ということではなく、哲学を持って活動しているところが黒坂さんのユニークさだと思います。最後に、読者に向けてメッセージはありますか。

「色弱」として絵を描くということでまずぶち当たるのは、自分が持っている先入観なんです。他人にとやかくいう前に、自分の先入観を取っ払うことから始めないといけない。メッセージがあるとしたら、私と一緒に先入観と向き合うトレーニングを続けていきましょうということぐらいかなと思います。

貝殻柄のシャツに半ズボン、キャップと、ポップな出で立ちで登場した黒坂氏。爽やかな笑顔を見せながらも、言葉の一つひとつをつなぐその間は、言葉になりきらない思考の一端を含むような奥行きがある。自身のテーマに対し臆することなく表現へと昇華させる作家のスタンスに今後も目が離せない。

映像作品「道を見つける」

Information

YU_KUROSAKA

黒坂祐(くろさかゆう)1991年、千葉県習志野市に生まれ。ファッション、音楽などを愛する大人たちに影響を受け、芸術を志す。2019年東京藝術大学大学院を卒業。現在は絵画を制作の中心として据え、自身の2型2色覚を出発点とした認識世界への深い考察を行う。主な展示実績に、「project N 87 黒坂祐」(東京オペラシティアートギャラリー、2022年)や「荒れ地のアレロパシー」(三越コンテンポラリーギャラリー、2019年)などが含まれる。2019年にはシェル美術賞グランプリを受賞。

Translate »