Talent No.21

HIROSHI_MORIYAMA
Game Designer/Game Director

  • #世の中にないものをつくり、驚かせ、喜んでもらいたい
  • December 31st, 2024

Profile

森山尋(もりやまひろし)ゲーム会社PICTORY代表取締役社長。主な代表作に「ちびロボ!」「城とドラゴン」「いきものづくり クリエイトーイ」。2024年には「モンスタークリエイト」の配信を開始。映画監督を志すも、パチプロを経てゲームの世界へ。プロダクトアウトでありながら、ユーザー想いのゲームを国内外に輩出してきたゲームデザイナー、ゲームディレクター。

パチプロからゲームの世界へ

高校を卒業して予備校に行く名目で浪人してたんですが、結局行かずにパチプロをやってた時期がありました。ちょうどバブルの時代でパチンコで暮らしてる人も多く、僕も月100万位儲けていました。しかし、そのバブルが弾けて一気にパチンコ屋が閉まっていく時代になり、勝てなくなりました。ある日、すごく負けてもう駄目だと思いながらバイクで帰る途中、信号待ちでゲームコンピュータの専門学校の看板が目に入りました。元々映画を作るような大学を目指していたんですけど、映画監督になる道筋がないと諦めつつありました。ゲームの世界を見たときに、ゲームと映画は似てると感じました。総合芸術というか、最終的にゲームの場合はユーザーが入ることで完成する新しいエンターテインメントだと感じました。面白そうだなと思って、その専門学校に入ったのがきっかけです。この学校では色々な課があるんですけど、プログラミングを勉強しないとゲーム作りはできないだろうなと思って、プログラミング科に入りました。数学は大嫌いだったんですけど、もう一回自分で教科書を買い、数学を勉強し直しました。

元々は映画のような総合芸術を作りたかったんですね。

映像エンターテイメントですね。僕が小さい頃は、いわゆるスピルバーグやジョージ・ルーカスの時代です。小さい頃から映画に憧れ、感動したところから、映像のエンターテイメントに興味をずっと持ってました。ちょうどファミコン世代なので、ゲームも小さい頃はやっていました。

子供の頃からそういった映画には親しみがあったんですね。

土曜や日曜の夜にある映画は毎週観てました。何十回も同じ映画を再放送で観てましたね。

今でも映画は観るんですか。

日本のドラマを最近は観ています。

(森山さんが選ぶドラマ2024年 Best9はこちら)

小さい頃は、ファミコンをやっていたんですね。

僕が小学校の時にファミコンが出たので、僕らは最初のゲーム機世代ですね。小学生の頃、原宿に住んでいたので、毎日のようにキディランドに行ってテレビを観て遊んでいました。マリオブラザーズの対戦を、みんなでやっていた世代です。

その辺の原体験もあったんですね。

ちょうどマイケルジャクソン時代で、洋楽コーナーには、その映像も流れていました。当時の流行がキディランドに集まっていたというのは影響がありました。

小さい頃の将来の夢はありましたか?

野球もサッカーもやっていたので、スポーツ選手になりたかったですね。でも、周りは身長がどんどん伸びていくのに、自分はそんなに大きくなれなくて駄目だなと思ったんです。

やっぱり競技性が好きなんですか。

小さい頃は、足が速いとモテるみたいなのがあったのと、サッカーも好きでした。

手掛けている作品には、ドラマ性、エンタメ性がすごくありますけど、競技性もあるじゃないですか。面白いゲーム、遊びというのは、子供の頃から考えていたんですか?

僕らが小学校の時、アドベンチャーブックが流行っていました。開くと文字と挿絵があって、例えば海底系のアドベンチャーだと潜ってサメが出てきて、どうする?みたいな本です。その翻訳版をもらえたので、自分で絵を描いて、文章を書いて、切り抜いて、お父さんや友達と遊んでもらっていました。

ある意味、もう小学生の時にはゲームづくりを始めていたんですね。

そんなに意識が高かった訳ではなく、単純に楽しかったからやっていました。ゲームも好きでした。

森山さんは、自分のやりたいものを作るプロダクトアウトを掲げてますよね。一方で、ユーザーの声を聴いて、みんなが喜ぶような企画が上手だなと思います。

僕は、クリエイターとかアーティストというよりは、エンターテイナーに近い部類の人間なのかなと思っていて、楽しませて喜んでもらいたい気持ちが強いです。芸人で言えば、ウケたい、ということですね。そこが強いのかなと思います。ゲームについては、世の中にないものを作って驚かせて、喜んでもらいたいという想いが強いですね。

確かにそういう部分が見え隠れしますね。そこが森山さんが手掛けるゲームの特徴の一つかなと思います。人間味があるというか、単純にグラフィックや絵がきれい、音が良いだけではなく、ユーザーを喜ばせることを大切にされてますね。新しいことを教わったり、面白い企画があったり、驚きがあることが多いです。

携帯が身近になったスマートフォンの時代に、ちょうど僕のアイデアと相性が良かった感覚はありますね。

(PICTOYが手がけるモンスタークリエイト)

先程の話に戻りますが、帰り道にふと見かけた看板を見て、専門学校に行く訳じゃないですか。そこからの人生設計はあったんですか?

就職が大変だったんです。当時は、今みたいにゲーム業界が面接や説明会を開いて、入社するみたいなシステムがギリギリあるかないかの時代でした。大企業はあるけど、ほとんどの中小企業は新卒という考え方がなくて、プロがどんどん中途で移動していく業界だったんですよね。自分でゲーム会社を調べて、「雇ってますか?面接してもらえませんか?」という感じでした。まずはゲーム業界に入るってことが第一歩でした。当初の夢が映画監督だったので、入ったらプログラマーとして働きながら、ゲームディレクターを目指すのが目標でした。仲間やスタッフにずっとデザインをしたい、企画書を出したいと、ずっと言い続けてましたね。

実際に入ってからはどうでしたか。

プログラマーとして雇ったから、君はプログラマーだよ、みたいな対応でした。企画書を企画の人にいっぱい出してるのに、中々認めてもらえないのが45年位続きました。同世代に天才的なプログラマーがいて、敵わない、自分はプログラマーとしては一流になれないとすぐ分かってしまったこともあります。その方は今、業界で有名になっていて一流だったんだなと思います。プログラミングは面白くて勉強し続けたんですけど、やっぱりディレクターになりたいという気持ちが強くなったのは、その影響もありました。

映画のストーリーのように強烈ですね。企画はその一方で、ずっと作り続けていたんですか。

1か月に1本ぐらい書いて、会社にも言われてないのに企画を持っていくとか、企画書を常にバッグに入れておいて、どこかの会社のプロデューサーの人とご飯や飲みに行く時には、やりたいことを話すようにしていました。

企画は誰から教わったんですか。

教わっていないですね。

森山さんのnoteに書かれているゲームの企画の作り方もすごく面白くて、的を射ていて面白いと思います。企画を作る時に大切にしていることはありますか?

完全に新しいものっていうのは、今の時代も難しいと思ってます。だけど、プチ発明みたいな、みんながやってないことを作りたい、完成させたいという気持ちが一番です。

それは持ち込みをやっていた頃からですか。

持ち込みをやっていた頃は、言葉としては考えがまとまっていなかったですが、感覚的にはそういう気持ちはあったと思います。ちゃんと言えるようになったのは、この10年です。

初めの頃はどのように企画を作ってきたんですか?

最初の頃は、世界観からゲームを考えていました。しかし、本来ゲームは遊びなので、どういう新しい遊びなのか先に考えがあって、それに合う世界観を考えるべきでした。それが、当時分かってなかったですね。とにかく見よう見まねでした。その頃はアイデアと呼べるようなものではなく、自分が遊んできたようなゲームの感覚だったと思います。

毎月色々な企画を出していたとのことなんですが、何がきっかけでディレクターとしての第一歩を踏み出したのですか。

他社のゲームの部門に入ってゲームプランナーとして、それなりに大きなタイトルに関わりました。これが終わったら1本ディレクターをやらせてください、と約束しました。だけどうまくいかず、ディレクターにここではなれないと感じた時に、ちょうど9.11が起きました。結構ショックで「戦うゲームをなぜ作ってるのかな?」と思うようになりました。ゲームは結構バトル物が多いのでそこに迷いが生じました。そこで会社を辞めて半年ぐらい、プー太郎というか、またパチプロになったんです。その間は企画書も書かずに、人生は一度きり、何をしたいのか考える時期でした。

もしかしたら、そこでゲーム業界から離れる可能性もあったんですか。

深く考えてなかったですね。9.11が起こったことをスルーできなかったです。受け止めてどうしていくか腑に落とさないと次に進めないと感じました。

転機となる出逢い

半年間自分の中で対話しながら、またゲーム業界に復帰したんですか。

戦わないゲームの企画を始めました。戦わないって難しいですよね。例えば、ドラクエだったら大体、強さがあるじゃないですか。だから結構難産だったんですけど、自分なりに企画書を作っていた時、戦わないゲームを作っているスキップという会社を見つけました。ちょうどその時、任天堂と共同事業を始めることから、人員募集があったんです。面接を受けて、僕の師匠となる西さんに認められ、一緒にやろうと言われました。一方でその時、ちょうど高校の頃の親友と久々に再会して、「一緒にゲーム作らない?」と言われたんです。彼は今属している会社で、戦わないゲームを作ろうとしていました。一緒にやる流れになり、スキップのオファーは一回お断りして、親友が属している会社に入りました。でも、そこで出逢ったプロデューサーが実は僕の師匠になる西さんと繋がりがある方だったんです。そこでは、自分の通っていた学校の講師もやりながら、新しい会社でどうにか1年間ぐらい頑張っていましたが、結局うまくいきませんでした。最後大きな企業にチャンスをもらって企画プレゼンに行ったんですけど、売れなそうだと言われました。プロデューサーが変わったところで、電話がかかってきて、そろそろこっちに合流したらと、スキップからオファーを頂きました。

当時を振り返ってみて、戦わないゲームってやっぱり難しいですか。

今は、あんまりそこにこだわってないです。夢としては戦争がなくなれば良いのですが、人間の歴史を考えると戦争がなくなることはないという現実もありますよね。宗教や人種の違いがあるけど、同じゲームで楽しみ、笑い合えたら理解しあえるかもしれないという希望があります。そういう意味では、ゲームの世界で戦ったからといって、仲が悪くなる訳ではないと感じるようになりました。スポーツの選手を見ると、そうゆう感覚になり、人種を超えて一緒に楽しめるものを作ることの方が重要だと思うようになりました。人と人が絡むソーシャルゲームとか、オンラインゲームというのが、そのちょうど自分に合うようになった感じですかね。

スキップに入って、スキルとその実現させていくための指針が見えたのですか?

スキップは師匠の西さんの企画を進めていたので、それはそれとして作り終わった後に、ディレクターをやらないかと言われました。「ちびロボ」というゲームも一緒に、西さんとディレクターをやりました。シナリオや世界観は西さんが担当し、ゲームシステムやゲームデザインを僕がやる形で、デビュー作になりました。

ダブルディレクターってあんまりなじみないですけど、今でもあるんですか。

プロデューサーが複数いるようなゲームもあると思うんですけど、役割分担ですね。西さんはゲームの遊びにはあまり興味がなく、小説とか音楽とか世界観が好きな人だったんです。太い力があるって信じてる人だったので、アドベンチャーゲームの人なんですよ。そこに人間を組むことで、アクション性とかゲーム性みたいなものを入れるとなり、僕がそこに名乗りを上げた感じですかね。喧嘩しながらでした。

一番苦労したことは何ですか?

その会社が5つのプロジェクトを同時に進めていたことです。いくつか部署があったんですけど、部署が違うと別会社ぐらいな感覚でした。プロジェクトが終わると、次のお金をとりに行ってとれないと解散みたいな感じでした。その部署は要するに西さんと仕事をしたい人が集まっているんで、僕がディレクションするとなると、なんでお前がゲームをデザインするんだという話になって、そこからが一番大変でした。

西さんも当時から人気やカリスマ性があったんですか?

目を見て、一言喋った瞬間から、自分の中の何かがガラガラと壊れるという、出会ったことのないような人でしたね。西さんの友人も、アーティスティックな方が多くて、ビジネスゲームから一気にクリエイティブクリエイターの人たちに初めて出会いました。同時に、任天堂と仕事をしていたので、任天堂のゼルダを作ってきたプロデューサーの方とも長く一緒にすることになりました。ちびロボも一緒にやるんですが、任天堂イズムというか、商業製品だったり、遊びをしっかり考えるような任天堂さんの教えも、結構叩き込まれました。両方から全く別物の考えを学びました。

(モンスタークリエイト開発中のキャラクターイラスト)

森山さんの手がける作品は、独特な世界観やゲーム性があると思うんですけど、それはお2人からの影響ですか。

両方の影響を自分なりにうまく融合させて、自分の色も出さなきゃというところで、消費処理が自分の中で追いつかないこともあり、うまいアイデアが出せず、馬鹿にされることもありました。普通ならやめてしまうような状況だったと思います。毎日、酒を飲まないと寝られないような日々でしたが、すごく飲んでも酔わなかったんですよね。

今の時代だったらハラスメントで訴えられそうですね。

ものづくりの世界ってホント甘くないから、そういうものなのかなって、今だに思ってます。優しくしても育たないです。ものづくりの世界で厳しい師匠がいる話と一緒だったと思うんですけど、師匠が優しい訳がないじゃないですか。それぐらいものづくりは大変です。受け継ぐ時にその心臓を理解するまでに時間がかかるし、今となってはすごく貴重なんですけど、当時は本当にきつかったです。

スキップでのディレクターは、どのくらい続いたんですか。

ちびロボを手がけて4年位です。ちびロボ1が終わった後に、若手が数人で新しく部署を立ち上げました。自分たちでお金をとらなかったら終わりという状況でした。結局ちびロボの力を借りて、僕がやりたかったロボットが自然を復活させる、命のないものが命のあるものを復活させるといったテーマで、ちびロボの2作目を作りました。それをプロデューサーが認めてくれて、アクションアドベンチャーを3作目としてつくりました。やり切ろうと思って、アイデアも出して自分の中で最高傑作と呼ばれるものを作りました。結局、日本のみで海外に出ていなかったのですが、海外のちびロボ好きの人たちが、自分たちで翻訳して遊んでくれたみたいで、一番面白いって言ってもらえました。

スキップでは、3作目を出して辞めたのは、やり切ったということだったのですか。

やりきりました。その後、10年位、誘ってくれた友人がいて、一緒にやることになりました。まだ20人位の無名な会社だったんですけど、無名な方が良いと思いました。どこまでその会社をブランドしていくことができるか考えました。

話を聴いていると、そういう友人の縁とか結構ありますね。

ご縁を大事にするというか、ご縁でしか動かないです。誘ってくれた友人は、専門学校の講師をやっていた時に、学校の教務の人が会わせたい人がいると、紹介してくれた方でした。その人が僕のことを10年ぐらい誘い続けたんですが、一緒にやってもまだシナジーがない、お互いもうちょっとやってからじゃないと組んでも意味ないんじゃないの?という話になり、断りました。結局、スキップを辞める時、「そろそろ、やりませんか?」って言ったら「時が来ましたか?」みたいな感じでタイミングが合いました。でも、本当に若い人しかいなくて、まずは組織づくりからとなり、開発本部長として会社全体をみることになりました。

ガラケーゲームの先駆けをつくる

森山さんが会社に入った頃には、会社でゲームは出していた状況だったんですか。

iモードのゲームを出していました。しかしiモードが一気に斜陽になってきた時代で、僕が入ってやったことは、すぐ企画を作って、任天堂に持っていって、ゲームを作ることです。その後すぐにソーシャルゲームの流れが来て、ゲームを作りました。当時、ゲーム業界は全員、ソーシャルゲームをバカにしてましたが僕は、面白いなと思っていました。ガラケーってぱっと出して戦えるんです。その着眼点は今で見たら当たり前のように感じるけども、当時はすごい画期的で、誰もやってなかったんです。誰もやってないんだったら、俺がやっちゃおうと、本当に作って出したらもう大発明でしたね。

どういったところが画期的だったんですか?

ガラケーなんで擬似リアルタイムというか、今のようなオンラインではないです。こっちが通信をするだけの話で、自分で画面も更新しなきゃいけないんですけど、実際に団体で人同士が戦うんです。そんなゲームは多分、当時は世界にもなかったんです。パソコンでやるようなゲームとかあったけど、ガラケーでオンラインゲームは、当時誰も考えてなかったんです。

僕、業界に入ってからは、あまりゲームをやらないので、どれだけ凄いことかわかってなくて、作った後に周りに凄いと言われました。プロダクトアウトだって言われ始めたんですよね。当時はギルドゲームっていうのが流行っていました。技術が集まって、みんなで一緒にイベントクリアするだけで、ギルド同士が戦うことがあって、時間を決めたら、みんなそこに集まる。12時から今日の試合が始まるとなるとマッチングされ、12時前に行くと掲示板にみんな集まって、お昼何食べたかとか会話が生まれる。バトルがないときはただの仲間になるのが面白かったです。

森山さんが意図したデザインですか。

意図しました。なるべくコストをかけないようにしました。ドラゴンリーグというゲームは、入ると20人のチームに振り分けられます。その20人のチームがどこかにいるチームと14試合、時間が決まっている朝、昼、夜に戦うんです。だからゲームが配信されるまでは1チームもないですが、戦っているわけではないので、配信して初めてユーザーが入ったり、ユーザーがどんどんチームを作ることで初めてゲームが成立します。リリースする前には成立しないので、デバッグ中はみんなに「クソつまんねえ」と言われていました。「参加したらわかる」と話をずっとしていました。

森山さんの中にあったんですね。

僕は革命を起こすと思っていましたけど、プロモーション力がなく、半年で大企業にパクられて、それ以降、あらゆる会社がそのシステムを真似していきました。

それも大発明ですよね。ゲーム業界を見渡してユーザーに聴いて、「こういうのがないからつくってみよう」じゃなくて、森山さんが出したのが興味深いですね。

ソーシャルゲームを、自分の中でライフスタイルゲームだなと思ったんですよね。今までゲームってゲームボーイだって常に持ったことないじゃないですか。携帯電話は常に持ってますよね。寝る時も傍にあるし、いつでも出かける時もあるし。ライフスタイルに合わせて、昼はあるし、時間があれば電話する。当時、対戦ゲームが流行っていて、僕がよく行くゲーセンに大体夕方6時に行くとみんな集まっているんですよね。それが頭の中にあって、その時間を設定すればみんな集まるんじゃないかなって思いました。例えば1人でゲーセン行って誰もいなかったらつまんないじゃないですか。大体何時からバトルが始まるって言ったら、みんな来ますよ。みんないるから、行ったら楽しくなるんですよね。当時はもうほとんどゲームで遊んでいなかったので、学生時代の頃に遊んだゲームの考えやゲーム以外の体験からゲームを作ります。

時代の波に乗り、大ヒット

それがプロダクトアウトになったんですね。ドラゴンリーグは、パクられる程ヒットしたようですが、次はいかがでしたか。

ちょっとしてから、スマホが来るんですよね。スマホは更新ボタンを押さなくても勝手に通信で画面が変わるので、本当に戦闘が動いて見えます。ドラゴンリーグを半年ぐらいでつくりヒットしました。同時に作っていたのがドラゴンポーカーです。対戦じゃなくて、協力をテーマにしました。当時カードゲームが流行ってたんですが、11枚ずつ出してみんなで力を合わせるオンライン協力が楽しく感じました。それがドラゴンポーカーですね。出した瞬間から、ユーザー熱量を感じるぐらいで、今だに続いています。本当に好きな人たちは遊んでくれているみたい。あれから、もう10年です。

その頃だったら、全部ヒットっていう感じだったんですか?

そうですね。本当に時代とアイデアが合っていました。ドラゴンポーカーの次に作った「城とドラゴン」はとにかく多くのユーザーに遊んでもらいたいというのを目標に作っていました。ガチャなしは、当時はほぼなかったので、出すまで本当に胃が痛くて、回収できるのかというのはありました。個人的に開発トップでもありながらクリエイターでもあるので、クリエイターの自分は楽しみなんだけど、責任者としては売り上げ責任を持ってるから、気分によってどんよりするみたいな感じでした。

実際リリースしてみてどうでしたか?

多くの人からTVCMで見たって言われました。TVCMは女の子が歌うし、覚えてる方も結構いるみたいです。ゲームの画面を出さないでオーディションで主題歌から作ろうと思って、僕が歌詞を描いて、それを選ばれた女の子に歌ってもらいました。

森山さんはゲームディレクター、プランナーとしてのスタンスでもありますが、プロモーションや運営、会社の人事もやっていましたよね。

全部やってました。面接や人事、給与の面談、ボーナスもです。代表がその原発後、田舎の長野に帰ってしまい東京に残されもう全部やるしかなかったんです。

城とドラゴンはどこが一番苦労されましたか。

やっぱりガチャなしですよね。有名なゲームになったと思うんですけど、その発売一年目とかは多分12カ月赤字でした。ドラゴンポーカーの成功があって、お金があったので、毎月赤字でもガチャなしを成立させるという会社として、僕としての夢とか目標があったんです。ガチャなしで3年半どうにかやったんですけど、その間ほとんど儲けがなかったです。その後、ガチャを入れたらユーザー数も増えたし、継続率もあったしもう世の中ガチャなしでは生きていけない時代になっちゃったと寂しさがありました。売り上げが上がって、人が増えた嬉しさより無念の方が強かったです。結婚したい、マンション買いたいというスタッフも多くなってきてたので、そういう意味では良かったのかもしれません。責任者としてはそうだけど、クリエイターとしてのチャレンジという意味では負けたって感じですね。

ユーザーからは、「ガチャなしって言っただろ」と、ものすごい批判されて、理由も話したんだけど、当時のユーザーっていうのは会社が正式なコメントを出しても納得しなくて、正直、半年ぐらいユーザーと話す気になれなかったけど、それはクリエイターとしての自分ですね。

過労から身体に異変

そのあたりからだんだん精神的にも肉体的にもどんどんボロボロになっていくんですけど、さらに新作を作りました。その辺はもう本当にボロボロですね。動いているのが不思議なくらいに人間として。イギリスで最後の作品となるガンビットリリース3日前に突然左半身が麻痺して動かなくなり、家で妹と過ごしていた時に倒れたり、頭痛や背中などあらゆる部分が痛くなり、指も動かなくなって、本当にありとあらゆる症状が出て、これも死ぬなと思いました。それで、体重も10キロぐらい減ってガリガリになり、1回休みました。

確かにガンビットね。狂気というか、今でも復活を望む声も多いぐらいですよね。

あれは出せば良かったなって今は思いますけど、本当にボロボロの中で作った最後の作品でした。休んでる間、ほぼ毎日いろんな病院に行ってましたけど、なぜか分からなかったんです。結局、原因不明のからあらゆる科に行くというか、たらい回しにされてしまいました。結局、原因不明で一年ぐらいで少しずつ体調が戻ってきており、ただ直感的に長くは生きられないなという感覚はあります。借金して将来分の時間を10年ぐらい働いてたんで、マンガ家さんに近かったわけですね。最後にお金はもう会社にたまったので、若い人は別に俺がいなくても良いだろうと思い辞めました。

20人ぐらいの会社だったっていうのが出る時は100人位になったんですよね。

年商も30倍ぐらいになりました。ブランドもできて、それなりにゲーム業界で知ってる人も作品も増えて組織も作れました。元々偉くなりたかったわけじゃなくて、自分の企画を通すには権力が欲しかったんですよね。ゲームが好きでゲームを作りたかったから全部やってただけで、本部長とかをやりたかったわけじゃないですよ。だから体ぶっ壊れちゃったんですね。

それだけでも作りたいって思いが強かったってことですもんね。

実際楽しかったです。アイデアも出し、みんなも楽しく作ってくるし。ユーザーがすごいテンションで怒ったり楽しんだりしていることは、めったにできる経験じゃなかったですね。有り難いという気持ちで突っ走りました。

PICTOY設立へ

療養もかねて会社を辞めて、PICTOYを設立、これはどういった経緯があるんですか。

大きい会社だと、大きな売上が必要になるのは基本的に避けられないので、もっと物作りだけに集中したいという想いがあります。作りたいものは、小さなバンドのように見えてやりたいという話を、ずっと一緒にやってきた仲間に話したら、一緒にやりたいと言ってくれました。

面白いですよね。PICTOYのメンバーは結構長いですよね。

ちびロボのメンバーもいるし、城とドラゴンをメインでつくった人間もいますから。モンスタークリエイトの開発に4年くらいかけました。

苦労されたこととかはどうですか?

コロナになった瞬間に未曾有の時代になり、いきなりリモートになったのは結構大きかったですかね。ゲームの祭典である京都のビットサミットにも参加しました。

クラファンも結構画期的だったと聞いてます。

ほぼ完成しているものをクラウドファンディングするなんて初めてらしく面白がってもらえました。

アイデアがあったんですか?

まずやってみようというという感じでした。僕一人で全部やらなきゃいけなかったんですが、周りの熱い人たちから力を頂きました。辞める時、ブランドとかメンバーとか、お金も全て捨てたつもりだったので、応援してくれる方々がいて、すごく力になりました。

ずっと待ち望んでた人たちもそうですけど、ついに今年リリースということで、ちょうど半年ですよね。

そうですね。やりたいことはちゃんと明確にあるし、ゲームとしては完成度20%ぐらいです。少しずつ完成させていく感じですね。

今一番大事にしていることは何ですか。

メンバーはみんなおじさんで、運営は本当に体力勝負だと感じます。正直、厳しく週休3日にしたいなと思ってます。運営を続けていくためには、いろいろ工夫が必要です。30代だったらみんな全然余裕だと思うんですけど、5人で運営をやっている50代は中々いないと思いますね。

新しい人を入れてというのはないですか。

入れてもいいけど、大きくしたくないし、息のあったメンバーでやりたいです。外部の方にちょっと手伝ってもらうこともありますね。

海外に楽しさを広げたい

森山さんの最終ゴールはありますか。

海外に早く配信して楽しんでもらいたいですね。海外の人たちが、日本の人と人種や思想を超えて、一緒に遊んで楽しいと思ってもらいたいというのが目標ですね。売上目標はありません。海外で楽しいと世界の人に言ってもらいたいです。

平和や希望がキーワードになりそうですね。ものづくりで大切にしていることはありますか。森山さんは、自分自身が楽しいこと、周りの人が楽しいと思うことが大事だとおっしゃってましたよね。

アイデアが浮かんだとして、自分の中にある時は大抵最強のアイデアです。一番身近な人間に軽くしゃべってみて、面白そうって言われるかどうかはすごく大事です。複雑に説明して、やっと分かってきたのではなく、ただ喋って面白そうと思ってもらえるのがすごく大事です。簡単に伝えられて、身近な人が面白いと言えるか。自分だけ面白いからやっているわけではないです。そういう意味ではアーティストじゃないですよね。アーティストって、人に何と言われようが、自分がこれと思ったらこれ、ということだと思うんですけど、僕はやっぱりウケたいです。ちゃんと受け入れられて、作りたいものが作れて満足っていうのはないですね。やっぱり人に受け入れられて、ウケてなんぼだ。と思ってます。できるだけ誰もやっていないやり方やアイデアで受けたいと考えていました。

中学校の時は、アメリカに行ったとおっしゃってましたね。

中学2年生の時に、友人で日本企業のニューヨーク支店長の父親がいる親友がいました。親友か、「良いサマーキャンプがあるんだけど、行ってみない?」と誘われ楽しそうだから、行くことにしました。ケネディ空港に降り立ってその空港の自動ドアが開いて、風や温度とか肌触りまで覚えてます。本当にそこで過ごしたいと思いました。キャンプで過ごした日々はすべて外国人ばかりで、本当に大きな経験となり、今も昨日のことのように覚えています。原風景や原体験というのはクリエイターにとって大事なものです。その風景はそこにあるなと思いますね。日本ではあまり人付き合いがうまくいかなかったんですが、一方、海外の人とは驚くほど楽です。小さいことは気にしない、文句があるなら直接言う、チャレンジする空気感が合ってますね。

これから海外チャレンジも、いい反応が出るかもしれないですね。ちびロボ2はアメリカでもヨーロッパでも、結構売れてましたね。

最近思ったのは、パルワールドという世界で売れて、日本の売上が5%だった時に、日本だけで出してたら外れですが95%の市場があったんですよね。日本で売れなかったものが海外で出せたら売れたものも、多くあるのかもなと思います。日本で出して終わりっていうのは、もったいないです。知名度を広げるのは本当に難しいけど、チャンスはあるなって思いますよね。

ロマン、夢がありますよね。最後に、ものづくりやクリエイティブをやっている人や子どもたち、若手の人にメッセージがあればいただきたいです。

僕がよくゲームを作りたい若手に言うのは、ゲーム以外のことをいっぱいやった方が良いということです。例えば夏だったら海に行ったほうが良いし恋愛をいっぱいしたほうが良いです。男の子だったら、野山を駆け回るような体験も含めて結局、会社に入ったときにその経験が活きてくると思います。ものづくりで大事にしてるのは、やっぱりオリジナリティですよね。それは原体験や原風景、自分の中にあるものからしか出てこないです。いろんな経験をすることが一番大事なのかなと思います。

話を聴かせてもらって原体験や自分の気持ちに寄り添って、すごくピュアな想いでものづくりをされていると感じました。本日はありがとうございました。

(モンスタークリエイト 開発中動画)

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森山尋(もりやまひろし)ゲーム会社PICTORY代表取締役社長。主な代表作に「ちびロボ!」「城とドラゴン」「いきものづくり クリエイトーイ」。2024年には「モンスタークリエイト」の配信を開始。映画監督を志すも、パチプロを経てゲームの世界へ。プロダクトアウトでありながら、ユーザー想いのゲームを国内外に輩出してきたゲームデザイナー、ゲームディレクター。

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