Talent No.20

NORIMICHI_TSURUMI
Bar THE CRANE bartender

  • #池袋から世界のウイスキーを届ける
  • November 4th, 2024

Profile

料理人の家庭に生まれ、料亭の料理人からBar店主へ転身。1991年池袋西口にてオールドレアシングモルト専門店としてBarをオープン。2016年に次のステージに向け一度幕を閉じ、世界17カ国を巡りウイスキー蒸留所、ワイナリー等を訪れ生産者との交流。2021年池袋西口に新しい「Bar THE CRANE」を開店。世界の銘酒とシガー、フルーツを提供しながらクラシックの名曲と共にくつろぎの空間を紡ぎだしている。

お酒との出会い

鶴見さんは、お父様が料理人で男三人兄弟と伺っておりますが、生い立ちをお聞かせください。

スポーツ一家で育ち、父親は元々公務員でしたが、職人肌なところがあり、自分で料理店を開く形になりました。その背中を見て、料理の世界って面白いなと思って一度、18歳の時に専門学校に通いました。卒業後、紀尾井町にある福田屋という料亭で修行しました。当時、自民党の最高顧問会議や経済同友会があった東京でもトップクラスの料亭です。

厳しい修行時代だったんですね。

人にとっては厳しい修行だったと思うんですけど、実力がついてこないと、すぐ辞めさせられてしまう店でした。ついていくのは大変でしたが、やりがいもありましたし、自分の人生、仕事としてのベースをつくらせて頂いたと思います。

特にどんな部分ですか?

そこのお店は、頑張るということではなく、やれて当たり前なんです。当たり前のことをちゃんとやり、皆さんに喜んで頂く、自分の料理の腕を上げる、そういうことが全てにおいて当たり前の仕事なんですよね。自分が独立してからというのは、お客さんに喜んで頂くとか、品物を海外まで買いつけに行くとか、そういったことも自分の中ではもう当たり前になりました。

そこで問題が起きたとのことでしたが、どんなことだったのですか。

元々アレルギーがあったんですが、その職場で甲殻類アレルギーが酷くなりました。一切、エビやカニの甲殻類に触れるのもできなくなってしまいました。和食の世界ではエビやカニはお祝いごとに使いますし、味見ができなければ料理ができません。そういう人はついてこれないので一回、自分の人生をリセットしようと思いました。福田屋では3年間、仕事をさせていただきました。

その後、東京出身なのでお酒の世界に若い時から興味があり、修行に行かせていただいたのが、この業界に入るキッカケの一つです。銀座のBarでは包丁を持てたので、非常に便利な従業員ということで、お酒をまず覚えてほしいと言われました。毎日お店に行くと、テイスティング、カクテル作り。氷のカットは、トレーニングをさせられたんですよ。なので、あっという間にお酒に馴染む体になってしまったのが正直なところです。

銀座のBarでどのくらいの期間働いたのですか?

銀座には1年ほどいました。あまりいいことではないんですけど、人の下につくのが苦手なタイプのようで、できれば早く一本立ちしたいっていう想いがあったもんですから。そこの場に勤めて3ヶ月でウイスキーが好きだなと思って、買い集め、3ヶ月後には部屋に300本のシングルモルトがありました。

自分で買われているのですか。

仕事場は、昼から働く店だったんですが、昼休憩には銀座の酒屋に行き、休みの日は関東近辺の酒屋さんでお酒を買い集めていました。Barデビューするまでは一本も持ってなかったのですが、毎日のようにテイスティングしなさいって言われて。

最初の頃はウイスキーっておいしいと思わなかったんですよ。それがある日、スキャパという8年のお酒を飲んだ時にすごい美味しい!って体が喜んでることに気んです。それから2,3週間してタリスカーの12年、という今でも伝説のシングルモルトウイスキーをテイスティングする機会があったんです。その時に雷に打たれるような感覚で、脳に浮かんだのが、これを仕事にしようということでした。料理と同じで嘘をつかないので、お客様にストレートに表現ができます。お酒を飲む方やご飯の食べ方は毎日口にするので伝えやすいですし、特にお酒は香りが強いので感受性の高いものです。これならこの世界でやっていける、と感じるお酒に出逢え、すぐ独立をしようと決めて、毎日お酒を買いました。

それが3ヶ月間続いたんですね。

そのタリスカーに出会ってから3ヶ月後には、300本シングルモルトが私の部屋に段ボールに詰まってました。練馬が実家だったので、銀座から有楽町線の最終電車で帰るわけです。その間に今日は何を飲むか、次に飲むものはちょっと甘いものにするかクセのあるものにするか、というのをイメージしながら、帰りました。銘柄が自分の感性と合うか、自分の部屋でテイスティングしてチェックしていました。自分でお酒を楽しむことが、仕事でお客様にお酒を楽しんでいただくベースになっています。

開業にむけて

まずはご自身が楽しむのに部屋でやったいたんですね。そして1年間、そこで働きながら自分でお酒を集めて、すぐ独立したのですか。

たまたま私が一店目の路面店のBar THE CRANEをオープンしたのが1991年11月、いわゆるバブルが弾けた直後なんですよね。その頃なので、まだ銀行へ行けばお金を貸して頂ける状況でした。銀座で勤めていて良いお酒には出会ったけど、まず作っているところに行きたくなり、1年ほどヨーロッパを放浪しようと思いました。

仕事を辞めて1年間放浪したいんだけど、手持ちのお金が全部お酒に変わっちゃった訳です、300本分。お金ない訳ですよね。父親にちょっと貸していただけないかと伝えたところ、商売も経営している父親なので、「順番が違う。まず頑張って自分で店をやって成功してから行けばいいじゃん。」と言われました。

「じゃあ明日一緒に銀行へ行こう。それだけ自分の頭の中にお店のビジョンとかやりたいことが決まってるなら今日のうちに企画書を書きなさい。」と。

銀座で勤めてた店の数字も僕全部頭に入ってたので、できる限りの計算をして次の日その企画書を融資していただこうと銀行へ行ったら、印鑑を押して頂けました。1991年、24歳で一店目のお店をやらせて頂くことになりました。

お父さまもすごいですね。

面白い父なんですけど、やりたいことはトライするべきだし、自分の子供がやりたいと思うことがあるのは、親としては幸せだという言い方をする人なので。親は、三兄弟なんですが、全てにおいて子供の背中を強く押すという感じでしたね。厳しいけども、それは感謝しています。

看板を機に人気店へ

銀行から融資を受けてオープンしたとのことですが、お客さんはどうされたんですか?

練馬出身で1号店が池袋です。子供の頃から学校へ通うなど使ってたのが池袋なので、地の利は若干あったんですが、全く知り合いもいませんでした。その時、ちょっと勘違いをしたことがあり、人間って好奇心旺盛だと思ってたんです。

お店を作った時に看板を何も出さなかったです。ただレンガ造りの入り口に黒い扉で中も見えない何のお店だかも分からないような感じにしていました。人間は好奇心旺盛だから絶対に入ってくる、という狙いがありました。そしたら見事に誰も来ないですよ。1991年7月20日にお店をオープンして1ヶ月間、お客さんが、ぽつぽつしかいなかったんです。近くのお店のママさんやその場続きの方がちょこっと来たりして、中に入って会話をして飲んでいただくと、すごく喜んでくれて。リピーターは翌週も来てくださったので、店の雰囲気としてはちゃんと回ってるんだなと思いました。お店を始めて1ヶ月半ぐらい経った時に、酒屋さんが来て、「この辺のご商売の方、すごい閑散としてるんですがどうですか?」って言われたから、うちは全然暇ですと言いました。

それに対し、「看板出してないですもんね。お金出して看板作るんで置かせてください。」って言われたんです。うちは看板を置いても変わらないだろうなと思ってました。しかし、2週間後に看板を置いた途端に、お客さんが40人来たんです。それまで10人未満のお客さんという毎日だったのに看板を置いた途端いきなり物凄い数のお客さんが入って、賑やかになってきたんですよ。その週の金曜日、25席のお店なのに60人の客が入ったんです。よく考えると、看板だ、と思いました。なんて自分は勘違いをしていたんだろう?やっぱり人間は好奇心よりも恐怖心のほうが強いんだから、まずは入りやすい形にして、中を分かってもらって、それから少しずつお客さんの選定をしていくようにするべきでした。一番最初からお客を選んでみたいなお店作りをしたもんですから、非常に勉強になりました。

なるほど。今も、そのシークレットというか、知る人ぞ知るスタイルではありますよね。

今は比較的売っているものも、通常よりは少し高価なものを扱わせて頂いています。どちらかというと、ゆっくりとした場所と時間を楽しんで頂く雰囲気の店づくりに切り替えました。看板を置いて4倍ぐらいの売り上げになり、商売ってこんなに違うんだと痛感させられたのがスタートですね。

当時は今と違って情報発信がなかなかできなかったですもんね。

まず世の中にインターネットがなかったんです。1992年からは毎年ヨーロッパにお酒を買いつけに行くようになるんですけど、最初の頃はファックスでした。ファックスを一度ホテルに送ってから、蒸留所に更に送って伺います、というような感じでした。まだユーロが統合される前なので、今1本20万するお酒が6,000円でした。びっくりするような安いウイスキーがまだ認可されていないような時代でした。

より良いお酒を求め海外へ

その後ヨーロッパ海外へ買い付けに行くと思うんですが、それまではどのくらいかかったんですか。

お店がオープンしたのは1991年で、ヨーロッパに行くようになったのはその翌年からです。年に1,2回でイタリアに行き始めたのが1994年からになります。イタリアは、スコッチウイスキーの消費量が世界でもトップでした。イタリア人がものすごくスコッチウイスキーを消費する、もしくは贈答品として送ったりもするんです。イタリアに行くとデッドストックがものすごく残ってて、宝の山みたいなお酒屋さんがたくさんあったわけです。

その当時、どうやってそのような情報を集めたんですか。

情報はゼロでした。なので、当時エアチケットを買ってローマに着きました。

ローマに着いたら、どこの町も必ず売店があって、その町のマップを売ってるんです。ホテルに着いたら電話帳で酒屋さんのページだけを切って、ストリート名と番地を全部赤ペンで書くんです。次の日、そこを全部まわるんです。イタリアのどこでもいいから車で行って、レンタカーで、全て町のストリートを一つずつチェックしました。お酒屋さんを覗いて、いいなと思ったものを全部集めるという、非常に原始的な方法でお酒を集めました。

良し悪しも自分で足を運んで判断されていたのですね。有名とか無名とかに関わらずですか。

まずはシングルモルトウイスキーのスコッチは、見かけたら全て買うようにしていました。いつもステーションワゴンが動かないぐらいサスペンションが一杯でお酒を毎回買って帰っていました。

店を閉めて本格的に行くようになったのはいつ頃だったのですか。

25周年を迎えて、2016年の9月に一度CRANEのファーストステージを閉めようと決めました。娘がちょうど大学を卒業する時期で、留学をすすめましたが就職するということで、それなら自分が昔から海外放浪してみたいという思いがあったので、一度お休みをとって海外に行こうと決めました。

ファーストステージのCRANEは365日営業、大晦日だけはお休みでした。今は、週休2日が当たり前の世界なので、25年間のうちお休みを考えたら、4年ぐらいに匹敵するかなという感じです。4年間、好きな時間を作ろうと少しお金を貯めながら、戻ってきた時に仕事ができればいいなと思い、2016年にお店を閉じさせて頂きました。

ファーストステージとしてCRANE25周年で海外放浪の旅に出たのですね。

4年間のうち、途中でコロナになってしまって、ほんの少し短めで日本に戻ってきたんですけれど、北はアイスランドから南はアルゼンチンまで17カ国くらいです。お酒の生産者さんに会い、試飲をさせてもらいながら、本当に自分の人生の肥やしになるよう美術館や博物館に行かせて頂き、楽しい日々を4年間過ごさせて頂きました。

25年分の休憩だったのですね。プランは決まっていたのですか。

国は決めてたんですけど、レンタカーだけ借りて、あとは自分の好きなようにその街に行き、ここで満足だなと思ったら、次の町に行きました。イタリアには一番長くいました。

シガーとの出逢い

イタリアではお酒のみで、シガーはまた後程出逢ったのですか。

キューバの方との出逢いがキッカケでした。池袋には立教大学が近くにありましたが、野球の長嶋監督が立教出身でした。キューバは野球チーム選手が凄く有名な方がいるので、その間に入って選手を引っぱってくる貢献をされたんです。立教大学はキューバと非常に仲が良いんですよ。なぜかキューバの友人を連れてくる方が、CRANEに多く現れました。

ある日、キューバ大使館に勤めている、シガーの熟成家で日本人の方にお会いする機会がありました。それからキューバにしかないような特別なものを譲っていただく機会があり、キューバ専門のちょっと古いビンテージのついたリミテッドエディションみたいなものをご用意するようなお店になったんです。

ファーストステージを終えて世界を放浪している時にシガーと出逢ったのですね。

キューバには2度ほど訪問しまして、タバコの葉を作っているところや、シガーを巻いているところなど、工場に行きました。少し購入もさせていただいて、今それをお店でもお出ししているんです。

クラシックの世界に触れる

駅の反対側には東京音楽大学という有名な大学がありまして、ファーストステージの頃のCRANEは、従業員の女の子はみんな東京音大の子たちだったんです。みんなクラシックをやってる子たちだったので、自然とお店の音楽がクラシックで、最初はジャズをかけたんですけど、12時間営業していると脳が疲れていることに気がついて、それをクラシックに切り替えたら、すごく脳が疲れてないことに気がついたので、それからクラシック一本ですね。

放浪の時もクラシックだったのですね。

ベルリンで演奏会をやっている友人がいるので、訪問したりオペラを見に行ったりしました。本当に心を豊かにさせて頂いた感じですね。

こだわりの空間づくり

最後、アルゼンチンを経て日本に帰ってこのセカンドステージのお店をオープンするのですね。構想があったのですか。

恩返しとくつろぎみたいなテーマがあります。池袋の地はどちらかというと、街には行きたくないな、という印象を持つ方も多いと思います。一方、CRANEが25年間、やっぱりこの場だね、と言われる店にして頂いたのは、ほとんどこの街の人たちでしたので恩返ししたいと思っています。

あと2か所なんですけど、マルティニーク島にゼバという蒸留所の蔵があります。そこのオーナーズハウス。あとはジャマイカのUCCの農園があるんです。その農園の主さんの休暇みたいなところがあるんですが、そこの部屋はものすごく見事で。こんな感じの寛げるようなつくりにしたいなっていうのを頭の中に絵を描いてて。それを今、お店に再現しながらやっています。

確かに居心地いいですよね。

比較的贅沢な作りにさせていただいています。ただ、これが国産ではなくオランダ製なので、ちょっとビッグサイズなんですよね。長い時間座っても疲れないし、リラックスできます。

あとは本当に厳選したフルーツを、一族で大事に扱っているフルーツ屋さんがありまして。お子さんなども問屋や市場にいて、全国にいろんなフルーツの情報を持っている一族から譲っていただいて、お出ししています。

お酒が飲めない人もフルーツを楽しんでいますよね。

家族で来て頂く方もいるので、お子さんをお連れになったり、結納で使って頂いたり、くつろぐ場として使って頂けるように心がけています。

ファーストステージの時は、ファストフードを扱っていましたよね。

パスタとかもう少しボリュームのあるものをご用意してたんです。今は一人でやってますけど、パートナーが誰かが決まれば、いろんな展開ができるよう店も作ってあります。これからもっと展開をしていけるように頑張っていきたいです。

それがサードステージ、新しいコラボレーションですね。

セカンドステージのギアを一段上げる、そんな感じですね。

新たな交錯が生まれる次のステージへ

これから、鶴見さんが目指している世界について教えてください。

お客様に感謝っていうのもあるんですけれど、やはり今度いろんなお客様の力を借りながら、いろんなことにトライをしてみたいというのが最後の部分かなと思います。

最後にこんなことをトライしようというのはありますか。

いわゆる料理に精通している方を呼んだり、お店をアパレルの方の販売に使っていただいたりしながら、お酒とコラボする受注会とかも良いですね。靴もそうですし、お客様はやはりシングルモルトとかグラッパとか、特別なものを好きな方はスペシャルなお仕事をされてる方も多いです。そういう方たちと今度違う色の違う絵を見てみたいなというのがありますね。僕の色はそのウイスキー、お酒という部分なので、それを他のお客様に提供すると同時に、色んなものを見て頂けるような機会をつくれるように、人との出会いをこれからより大事にしていきたいです。

まさにこのメディアは人との出逢いを大切にしているのでぴったりですね。
最後に、これを見ている方へのメッセージをお願いします。

今まではお酒を中心に考えていたことが、やはり4年間海外をフォローしてきて、人の大事さを非常に感じることが多かったです。これからは出会うお客様や友人などに力を借りて、お互いがブラッシュアップしていけるようなお店づくりをしていきたいと思います。

ありがとうございました。

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NORIMICHI_TSURUMI

料理人の家庭に生まれ、料亭の料理人からBar店主へ転身。1991年池袋西口にてオールドレアシングモルト専門店としてBar をオープン。2016年に次のステージに向け一度幕を閉じ、世界17カ国を巡りウイスキー蒸留所、ワイナリー等を訪れ生産者との交流。2021年池袋西口に新しい「Bar THECRANE」を開店。世界の銘酒とシガー、フルーツを提供しながらクラシックの名曲と共にくつろぎの空間を紡ぎだしている。

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