Talent No.19

NAOMI_SUZUKI
Ama diver/Designer

  • #海女になっちゃえばいいじゃん。
  • October 28th, 2024
Profile

鈴木直美(すずきなおみ)、またの名を鱆姫(たこひめ)。デザイン学校を卒業しデザイナーに就業するも、高校時代に始めたサーフィンへの想いは高まり、南半球オーストラリアでの生活を開始。全日本サーフィン選手権をはじめとする数多大会に参加するなど、サーフィンに明け暮れる日々を過ごす。サーファーとしての第一線を退いた後は一からデザイン事務所を立ち上げ、1日20時間も働くことも。しかしその後も海への想いは消えず、今度は海女として海との接点を持つことを決心。異例のスピードでの海女デビューを果たす。現在は、南房総白浜に自宅を構え、ときに海女、ときに水中パフォーマー(CMやドラマ等の水中シーンを担当)、ときにデザイナーとして、飼い猫と一緒にエネルギー溢れる日々を送る。

鱆姫さんのすぐそばには、いつも海があった。

職業、海女。

デザイナーもやりつつ、海女さんもやる、と。本業はどちらですか?

本業は海女です。デザイナー業は、依頼があれば今でもやっている感じです。

では、デザイナーが副業ですね。

はい。そもそもはデザインで生計を立てていました。海女業とデザイナー業を並行してやっていた時期もあります。

並行し始めたきっかけとしては、グラフィックや図面を描くという仕事は、インターネットさえあればどこへ行ってもできるなと思ったことです。それで海女になるとほぼ同時に東京から拠点を移し、千葉での生活をスタートさせました。

でも、デザインの仕事を続けていて気が付きましたが、東京に現場があるデザインの仕事は、東京に来ないとできないんですよね。(笑)

催事や展示会会場の設営現場に行くことがありましたが、その度に大引越しみたいにやってました。最初は4匹の猫と一緒に暮らしていたので、車に猫4匹と荷物を積んで、東京に行って。それで現場での仕事が終わったら、また猫と荷物を積んで帰ってみたいな。結構たいへん!

 

猫も一緒に。今は千葉の南房総で海女さんをされているということですが、海女さんは何人くらいいるんですか?

私が始めた頃は、まだ300人近くいたと思うのですけど…今は高齢で辞めた方もいらっしゃいますね。そうそう、海女さんというのは女性最古の職業でしたが、今は海士さんといって男性の方で潜っている人が多いんですよ。

昔は、男性はいなかったんですか?

そうです。ほとんど女性だったらしいです。今は男性もすごく増えてきていて。

海女を目指し始めたころいろんな本を読みあさったり情報収集を兼ねて色々勉強させてもらったりしていたんですけど、昭和の初期なんて本を読むとあまりにも過酷で…その頃だったらやらなかったんじゃないかなぁとは思いますけどね。海女って知れば知るほど面白くて。

過酷というのは、どういった感じだったんですか?

千葉県では、海女がウエットスーツを着ることがずっと禁止だったそうです。私が始めた頃は唯一、ゴムのパンツは履いていいということで、最初の頃はゴムのパンツだけ着用して仕事をしていたんです。

そういう決まりがあったんですね。

全国でも、ウエットスーツを着られない海女さんは、千葉県と長崎の壱岐だけです。壱岐はレオタードを着ていたりするんですけど。あちらは女性がほとんどだったと思うんですけどね。

昭和の頃の話ですか?

そうですね。昭和の頃は全国的に肌着とか、ひどいところはトップレスでふんどしです。確か房総の海女もトップレスだったと思います。

それが正装だったんですか?

それが正式。輪島とかだと全裸にふんどし、鵜飼の鵜みたいな感じで腰にロープをつけて海に流されるというか。そんな感じだったみたいで…まぁそれは現代だったら考えられない話ですけど、そういった歴史も本で見たり読んだりして。

どうして男性がやらなかったんでしょうか?

潜るには皮下脂肪が関係していて。男性は皮下脂肪が少ないから、春磯とか冷たい水の中に潜るというのが耐えられないということじゃないかなと思うのです。韓国でもほとんど女性の仕事です。

なるほど、それで女性の最古の職業ということですね。

そうです。海女は日本と韓国に歴史があるんですよね。じゃあどちらが先なのかというと、昔、韓国の海女さんが房総に流れてきて、そこで潜ったことが始まりとされる説があるので、もしかしたら韓国が先なのかもしれないです。

水の中に憧れた幼少期。

そうですか。鈴木さんは子どもの頃から海が好きだったんですか?どんな子供だったんでしょうか。

私は東京の江戸川区で生まれました。動物が好きで、美術と体育は誰にも負けないかなというくらい得意な子でしたね。

幼稚園の頃は体を動かしたりとか?

あ、でも幼稚園では結構とろい園児でした。(笑)椅子とりゲームができなくて、もう全然取られちゃうとか。

うちの両親2人とも、すごく運動神経がよくて父親は甲子園球児です。父親は北海道で1番走るのが早くて、10年間記録を破られていることがないという…サラブレッドなはずなんですけど。(笑)

美術はどうして得意だったんでしょうか?

おばあちゃんが美術系だったらしいんです。美術学校に行ってたという話を聞いたんですけど、詳しい話を聞かずにいなくなっちゃいましたね。なにかを作ったりするようなすごく手先の器用なおばあちゃんだったみたいですね。おばあちゃんの家は北海道の函館の近くにあって、今は趣味の撮影に行きたいなんて思いますけどね。

では、幼少期も主に東京で過ごされている。

はい。子供の頃は、夏休みになるといちもくさんに学校のプールに行ってました。泳ぐのが好きで。学校のプールの授業では6級〜1級くらいまでスキルに準じて級があって、1級を持っているのが私1人だけでした。1級というのは、潜水25メートルしなくちゃいけなかった。タイムも計測するんですよ。そういえば、学校のプールの授業で梨取りゲームみたいなものがあったんです。プールに梨を沈めて、それを取る梨取合戦、みたいな。もう取りまくっちゃって!

泳ぎは誰に教えてもらったんですか?

それが、教えてもらってないんです。ただ、幼稚園の時に泳ぎが上手になるにはどうしたらいい?って父親に聞いたことはありました。そうしたら父親は、「毎朝、洗面器に顔をつけてぶくぶくやりなさい。」と言いました。

要は顔に水がかかっても怖くならないように、ということだと思うのですけどね。それで、洗面所で顔が届かないなりに台を使って一生懸命、つま先立ちで、顔をつけてやってました。

とにかく水の中を見ることに執着心がありましたね。当時、なかなか手に入りづらかったのですが小さいゴーグルを買ってもらうことができて。

それで、ゴーグルで水の中をみたときにすごく興奮しました。裸眼だと、水の中って見えないじゃないですか。これで生き物がいてくれたら面白いなという思いがずっとありました。

子供の頃から水に親しんでいたことがよくわかります。

本当に水を得た魚みたいにはしゃいでたというか、大好きでした。

熱中したサーファー時代。

ご家族で海に行ったりとかしなかったんですか?

幼稚園へ行くか行かないかくらいの時に、鎌倉に叔母が住んでいて、江ノ島には行ったことがあるんですけど、それっきり。あんまり記憶にはないですね。父親が結構泳げる人で遠くまで泳いで行ったと言って、母親と叔母が心配していたような記憶だけあります。母親も運動神経よくて、走るのも早くて。親譲りの運動神経はあったと思います。

そうそう私、中学校の時は機械体操をやっていました。体操で大怪我をしてしまってそれっきりできなくなったんですけどね。果たせなかった夢を、大人になってからサーフィンでチャレンジした感じです。6年くらいサーフィンだけで過ごしていた時期がありますよ。

高校生の時にサーフィンを始めたのですか?

はい、ブームだったのでちょうど始めた頃です。ただ、卒業後の進路を決める時期に差し掛かって、デザインの道に進むことに決めました。それでデザイン学校に行って一度社会人として就職しました。その期間はサーフィンはすっぽり抜けてしまって。もう一度サーフィンを始めたのは会社を辞めてオーストラリアに行ってからです。納得いくまでやろうと決めて、試合にも出ました。

オーストラリアでサーフィンを再開すると。潜水はしていないんですか?

してないですね。オーストラリアの最初の4か月は旅をしました。シドニーから始まって時計回りで大陸を周りました。エアーズロックからケアンズに行って、そこでは3ヶ月間仕事もしたんです。で、その後の4か月はサーフィンに時間をあてました。

なるほど。しかし、どうしてまたオーストラリアに?

オーストラリアは治安もいいし、安全に旅ができそうだな、と思いました。自然も雄大じゃないですか、海もある。それと、赤道の向こう側に行くという憧れもあった。だから、1年間ワーキングホリデーでオーストラリアに渡航を決めたんです。帰ってきて、サーフィンで全日本選手権大会に行きたいと思い、まずは予選からチャレンジ。予選通過しないと本戦に出られないので、千葉南で選手として登録して予選通過し、5年間は全日本選手権に出ていました。

5年間、デザインの仕事もしながら?

その頃はサーフィン1本です。寝ても起きても、頭の中はサーフィンだけ。その甲斐あって日本一じゃないですけど、全日本選手権の千葉代表になりましたよ。全日本サーフィン選手権って要は甲子園的な仕組みなんですけど。日本全国各地区から予選勝ち抜いてからの全国大会なので。父が甲子園球児なので甲子園に当てはめてみました今でこそ、両親がいて帰る家があってこそできることだったんだなと思うので、恵まれた環境と親には感謝しています。

サーフィンの甲子園に出場して、結果はどうだったのでしょう?

最後の試合は準々決勝までいったのですが、結果は敗退で終わりました。当時はこれくらいで切り上げてそろそろ仕事に復帰しなくちゃな~という気分でしたね。結果に納得したわけではないんですが、日本一になるのが目的では無かったのもあって。そこからはサーフィン生活からデザイン生活に切り替えました。気づけば時代はデジタルになっているわけで。私もコンピューターを導入して、0から独学でいろいろと技術を覚えていきました。コンピューターを操作しての図面描きとか、デザイン画とかは操作を覚えないとできないじゃないですか。

ゼロベースでデザイン業に復帰したわけですね。どうやって仕事を取っていったんでしょうか?

実家が装飾関係の仕事をしていて、装飾とか催事、展示会を運営する会社なので、最初はそこから仕事をもらっていました。わりと、グラフィックから作図、大きな範囲でのデザインをやらせてもらってました。

デザイナーとして、また海に出会う。

海への憧れはずっと持ち続けていたのですか?

そうですね、ずっとありました。なので、仕事の空きをつくっては波乗りしに海に行っていましたね。もう選手ではなく、デザイナーが趣味としてサーフィンをやるんだ、と気持ちを切り替えていましたよ。フリーランスで始めた分、仕事の配分は自分で出来たので、趣味としてサーフィンを楽しんでいました。

趣味として。

はい。そんなある日、イルカと泳げる島があるらしいと。叔母が、新聞の記事で見つけてスクラップしてくれていたんです。それを読んで、御蔵島に行くんです。

イルカに会いに。どうでした?

御蔵島では野生のイルカが本当にすごく寄って来たんです!もうね、イルカが人に向かって、「下行くよ!」って言うみたいに下の方へ潜っていったり。それで一緒に泳ぎたい気持ちはあるんですが、あれ?どうやって潜ったらいいんだろうって。サーフィンをやっていたので水面は得意だったんですけど、潜るという概念が全然なくて。

その経験から、水に潜れるようになって、また御蔵島に行きたいなという思いが芽生えました。それで、ダイビングプールに通い始めるんです。いつかイルカと泳ぐために。そんなある日、いつものように潜る練習をしていたとき水中の無重力感がとても心地よく感じました。浮遊感がたまらなく心地よい。その感覚に魅了され、水の中で働ける仕事は無いかな?と考え始めるんです。

浮遊感に魅了されて?

はい。重力がかからなくて、すごく快適というか。もちろん呼吸はできないんですけど。この浮遊感とともに仕事がしたい、何かないかなと思った時に、ふとサーフィンをしに行っていた千葉の南房総に海女さんがいたなと思い出したんです。もしかしたら海女になれるんじゃないかなと思っちゃって。

泳ぐのが得意というか好きだから、このままアワビとかサザエとか取れるんじゃないかと思ってたんです。ふと閃いて、それも逆さまになって、プールのタイルの溝を見ながら、思いついたんです。そうしたらいてもたってもいられず即行動。とにかく情報収集のため千葉の南房総に行きました。

趣味の範囲でのイルカとの出会いから、一気に海女まで繋がりましたね。

そうですね。(笑)海女さんがいるというのは知っている程度だったんですけどね。そう言えば、サーフィンしてた時に冗談で「海女さんになっちゃえばいいじゃん」って言っていたんですよ。

サーフィンをやっていると、日焼けして顔が真っ黒になるんですよ。ガングロの私の顔を見る度に母親が、「そんなに黒くなっちゃったら、50、60になったら顔中シミだらけになるよ」と。その返事で、「海女さんになっちゃえばいいじゃん」って。その時はただの冗談のつもりでした。まさか本当になっちゃうとは思ってなかったんですけど。(笑)

海女さんになっちゃえばいいじゃん。

まさか自分が本当に海女さんになるとはね。でも、そんなに簡単になれるんですか?

やっぱり、大変ですよ。漁業権は絶対的に必要になるけど、取得の仕方がなにもわからなかったのでリサーチから始めようにも、そのリサーチの仕方もわからない。とりあえず千葉県南房総に通いました。

それで漁協(漁業協同組合)に飛び込んで「海女になるには、どうしたらいいですか」と聞いてみたんです。みんなに冗談を言ってるんだと思われて笑われちゃったんですけど、「こっちに住んでなきゃダメだろう」というヒントみたいな回答を得て。

ああじゃあ住めばいいのか、と。はっきりしたいい答えはもらえなかったけど、とりあえず物件を探そうと思って。何件か不動産屋を回ったんですけどすぐには見つからず、2年近くかけていい物件と出会いましたね。

2004年にイルカと出会って、海女さんを目指してリサーチ開始。2006年にいい物件と出会って即買いと。

そうですね。そうそう、「どうすれば最短で海女になれますか?」という質問をすると、みんな口を揃えて、漁業権のある家に嫁に行けばいいとも言われました。今は違うのですけど、昔は漁業権のある家のその家族は自動的に海へ出れるという話だったんです。でも、結婚が目的じゃないし。結婚したいわけじゃないんで、海女になりたいのに、結婚しちゃって子供ができたら、育児で海に潜れなくなっちゃってやりたいことができなくなっちゃうじゃないですか。それは目的じゃないなと。

ただ、私の海女の仲間で、漁業権のある家に嫁ぎ、そのまま家族と一緒に操業している方がいます。ここ最近になってからようやく子育てが終わって海女操業できるようになったみたいです。

漁業権を取得するには作戦が必要というか。

はい、全国的に新規で漁業権を取ることは結構難しいんです。千葉県は結構楽な方みたいですけどね。

でもコツは、何より地元に馴染むことだと思いましたね。だって、その地域で潜っている方々の許可がないとダメなんです。漁協側がオッケーを出しても、その地域の人たちに受け入れてもらえないと駄目です。

情報がないし、隠された部分があるから、鱆姫さんのように飛び込む人も珍しいでしょうね。

そうみたいです。当時全国でもそういう風に、地元民じゃない人に漁業権を出すということがとても異例だったみたいです。だから私が海女になった時は、結構話題性があったようで新聞や雑誌や、ろいろいろと呼ばれました。一方で、海女は全国規模で後継者不足という問題を抱えています。

三重県の方では海女サミットというものも開催していて、海女さんの後継者不足解消のため、海女さんの地位向上を目指して無形文化遺産への登録を目指しているようです。そんな流れもあり、よその人間がいきなり漁業権をとって、海女さんになれたという事実はすごく注目をされています。私の場合は1年半で漁業権を取得。ものすごくラッキーだったと思います。

海女という仕事

2年かけて家を見つけて、そこに住むようになって。

2024年現在、潜り始めて16年目、千葉に住んで17年目です。こちらで海女として暮らすポイントだと感じるのは、地元とどれだけ交流を持てるか、人間性を知ってもらえるか、ということだと思います。移住を決めたときにもらったアドバイスで、1年は住まないとダメだな、とも言われたこともあるので、地元との交流を意識して生活しています。

海女の生活はどうでしょうか。何を獲っているんですか。

私たちは素潜りでアワビを取るのがメインです。

潜る時期は決まっているんですか。

一応決められているのが、5月からスタートし漁期は9月10日まで。それ以降はアワビの産卵のシーズンなので、産卵を守るべく期限が設けられています。海を育てていくという視点も大切ですね。

漁獲量に制限もあるんでしょうか?

量に制限はないのですが、千葉県ではアワビ漁獲に12センチ以上のサイズという規定があって、それ以下のアワビはリリースします。成長の早いものでも3年じゃ足りないかも。4、5年はかかると思いますよ。

自分で獲った分だけが収入になるんですか?

そうですね、獲れたものは全て自分の分になります。収入は海女さんごとに違うと思います。

コントロールできるものですか?自分はこれだけで十分とか。

できるでしょうね。欲が出ちゃったらどうしようもないですけど。海を育てていくことも未来のために重要な視点ですから、根こそぎっていっちゃうのは問題かなと思います。私は小さいのがいたら来シーズンの為に無事に育つようにと願って見守っています。
10センチ前後のアワビが一番いい卵を産むと聞いてますしね。

海を育てながら漁獲するんですね。

はい。ただ、ここ2、3年、すごくアワビは高価取引なんです。アワビもクロアワビと、平たいアカアワビという赤と黒の種類があるんですが、その黒よりさらに大きい大黒というのがいるんです。大黒がこの2〜3年漁期前半は入札価格が4万円/キロ近くいったんです。大黒は600グラム以上なので、700グラムの大黒がいたとしたら、1個2万8000円だから。それを見つけられて剥がせたら、一息で2万8000円稼げちゃいます。

学校のプールでもやっていたけど、今度は海で本当の水中宝探しですね。他の海女さんもいるわけじゃないですかバッティングはしないんですか?

暗黙の了解で、他の人がいるところには行かないというのはあります。そこで一生懸命潜っている人がいるなら、そこにわざわざ行くというのはマナー違反だと思います。

海女さんに向いている人

海女さんになりたいという若い子が出てくるかもしれませんが、向いている人と向いてない人の違いってありますか?

まずは泳げるということが1番重要です。あとは寒さに強いことかな。春の冷たい海を知って、自分にはできないんじゃないかと不安に思ったほどに海には冷たい時期があります。低体温症になる寸前までいっちゃったこともあって、これはダメかなと思ってた矢先に、少し太れば楽になると言われて。

そんなテクニックがあるんですね。

ちょっと太らせたら、本当に楽でした。セイウチとかトドとかって、だから脂肪がついているんだと思います。寒さに対抗して太ってる。なるべく痩せないようにはしようと思うのですけど、太っているとファッション的にどうかなというのがあるので、痩せたいんですけどね。(笑)

プロフェッショナルですよね、仕事人として。

冬は春磯のために太って、夏に思いっきり仕事すればスリムになる。10キロ以上痩せてしまうこともあるから、一時はツーサイズの服を持っていたり。

すごいですね。本当にアスリートのような感じです。

アスリートですよ、海女さんって。

危ない目に遭うことは?

今のところ注意しているので、それはないです。体調に不安があるときは海には行きません。何かあったら、周りにも迷惑をかけちゃうので。毎年、死亡事故もあって、それは潜水が原因で亡くなったのかは定かではないですが、夏場になると脱水になって高齢者は特に危険な状態になることが多いんじゃないかな。だから、水分補給は、とにかく意識してます。

海女仲間はおいくつぐらいまでいらっしゃるんですか?

男性も女性も80代でも潜っています。千葉と違う地域ですが、90歳近くの方もいるみたい。都会では考えられないですよね、80代で海で稼いでいるって。

並行して水中パフォーマーとしても活動

ところで、CMにも出演されていると伺いました。

はい。CM出演をしたり、ドラマ等でも水中シーンのパフォーマンスを担当したりしています。NHK連続テレビ小説第88作「あまちゃん」にも出演していますよ。水中パフォーマーとしては、現在もオファーがあればお仕事をお受けして活動をしています。

海女、水中パフォーマー、デザイナーとして見る海の未来。

海女さんになってからも、他の業務を両立してやられていますね。

私は欲張りなので、いろんなことをやりたいんです。

いいじゃないですか。私にも野心があります。

1年で海女でいる期間は限られています。なので、海女オフの時間はまた違うクリエイティブなことに取り組んでいきたいと思っています。私が引っ越した頃は、両輪を回すようなライフスタイルってあまりない時代だったので、住居を行ったり来たりしていると、地元では非国民的な扱いになってしまったりもしました。

なるべく地元の行事に参加して、両立させて、工夫されていたんですよね。最後に、今後チャレンジしたいことはありますか?

環境問題に関心があります。今、私たちにとってすごく注視すべきことですよね。房総の外房の方はまだそんなにひどくはないんですけど、他の地域は千葉県内でも磯焼けで海藻がなくなっちゃっているんです。そうするとアワビやサザエの食べるものがなくなって、いなくなってしまう。私たち海女はアワビを獲るのがメインなので、アワビがいなくなったら失業してしまう、なんとかしたい。ただし、私1人では解決できないことなので、全国、世界レベルで取り組まないといけないなと思います。

そうそう、私が千葉に引っ越して、練習で泳いでいたスポットがあるんですけどそこもみんなハゲの岩肌になってしまって…。今、テーブルサンゴがいっぱいそこら中に生え始めて、そのうちきっとここらも日本最北端のサンゴ礁の海という名前がつくと思うのです。それも美しい光景ではあるんですけど、生態系が確実に変わってきているのは問題視していかないといけません。

実感している問題ですね。

あとは、後継者問題も気にしています。現在、千葉県でも協力隊を募っているみたいですが…。海女がいなくなればアワビが年を取って老化で亡くなっていくみたいな新しい問題も発生します。

もったいないですね、宝が…。

そうなんです。こういった問題について、海女の潜り仲間や地元の若手とも話し合ったりはしています。すごくお世話になっていますよ。これからは世代を問わずみんなで一丸となって解決すべき問題に取り組んでいかないといけないですね。

日本最古の女性の職業ですから、次の世代に伝えていくべきことや逆に変えていかないといけない部分もみえていると。

そう思います。うーん例えば、漁協が人材派遣をして日当制で、海女がいない地域の水揚げさせるというのもあってもいいんじゃないかな。

ぜひ鱆姫さんに実現してほしいです!

昔ながらの古い考えも大切にしつつ、新しい世代が引き継いだことによって、時代の流れに沿ったいい方向に変えていける部分もあったらいいですよね。

私ひとりでは力不足ですけど、地元ですごく頑張って活躍している若い海士さんがいたりするので、全面的にみんなで団結・協力して、海を守っていこうと奮闘している最中です。

最後にメッセージをお願いします。

ある意味、私達の海は無限と言えば無限です。でも、自然環境は確実に変化してきているし、資源は限られています。なんでもそうですよね。水も、日照りが続いて炎天下になって蒸発してしまったら環境が変わってしまうじゃないですか。今後、環境問題には、密に接して生活していかなくちゃいけないです。最近はものすごく夏も暑いしね。一人ひとりの意識で環境破壊は少しずつ抑えていけるんじゃないかな、と自然の中で働いている人間として考えています。

鮮やかなオレンジ色のコートにニットキャップ、大好きだという猫がプリントされたTシャツを身にまとった鱆姫さん。明るい笑顔が魅力的で、笑い声は空気をぱっと明るくする。今後も、鱆姫さんの好奇心の向く先に注目していきたい。

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NAOMI_SUZUKI

鈴木直美(すずきなおみ)、またの名を鱆姫(たこひめ)。デザイン学校を卒業しデザイナーに就業するも、高校時代に始めたサーフィンへの想いが高まり、南半球オーストラリアでの生活を開始。全日本サーフィン選手権をはじめとする数多大会に参加するなど、サーフィンに明け暮れる日々を過ごす。サーファーとしての第一線を退いた後はデザイン事務所を一から立ち上げ、1日20時間も働くことも。しかしその後も海への想いは消えず、今度は海女として海との接点を持つことを決心。異例のスピードでの海女デビューを果たす。現在は、南房総白浜に自宅を構え、ときに海女、ときに水中パフォーマー(CMやドラマ等の水中シーンを担当)、ときにデザイナーとして、飼い猫と一緒にエネルギー溢れる日々を送る。

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