Talent No.18

TAKUMA_TANAKA
Artist/Executive

  • #戦略のススメ
  • September 29th, 2024
Profile

1977年東京都江戸川区で生を受けた田中拓馬(たなかたくま)は、学生時代は将棋に没頭。大学進学後は弁護士を目指し勉強をするも2度の司法試験に失敗し、幻聴を経験するなど精神的に不安定な状態に陥る。リハビリとして始めた絵画制作で、自身の戦略性と芸術的才能が合わさり実を結び始める。「路上から世界へ」のスローガンのもと粘り強く活動をつづけ、絵画作品「Blue Rose」がイギリス国立アルスター博物館に収蔵されるなど、画家としての快進撃がを繰り広げる。将棋で培った柔軟な戦略思考を武器に、自信が共感するというアウトサイダーの領域への足を踏み入れ、2023年には、ニューヨークで精神障害や発達障害を抱える子供たちと共同でTシャツ制作プロジェクトに取り組むなど、精力的に活動を展開している。

交錯の舞台は、拓馬さんが神田に構える制作スタジオ。取材クルーへお菓子やお酒、肉料理をふるまうなど、拓馬さんの溢れるサービス精神が垣間見える。

学生時代を振り返る。

拓馬さんは、アーティストという紹介で合ってますか?

はい。正確には、精神的に病を抱えて行くところがなくなったひとって感じですかね。それで描いた作品を路上で売る、ということに辿り着いたので、今は結果的にアーティストです。

小さい頃から絵を描いていた、というわけではないんですか?

ないですね。小学校のときに落書きとかしたりとかはありましたけど。

そうですか。幼少期はどう過ごされたんですか。

僕は問題児でしたね。小学生のときは授業妨害をしてました。当時、僕には発達障害とか精神障害とか、たぶんそういう気があったと思うんです、発症はしてないですけど。それが原因で、先生にいじめられてましたよ。僕が邪魔だったんじゃないかな。聞かれて今思い出しましたよ、忘れてました。

もっと前はどうなんですか?幼稚園とか。

多分、あんまりかわいがられてないんじゃないですかね。両親の方は理解がありましたけどね。

拓馬さんは変わった子どもだったんでしょうか?

僕、変わってると思ってなかったですよ。でも、とにかく人の気に障る行動を起こしちゃう子でした。たとえば、虫を持ったら投げつけちゃうみたいな。

子供らしくてかわいいじゃないですか。でも当時はいじめられていた、と。不登校になったりしなかったんですか?

不登校というのは最近の概念じゃないですか。当時は学校に行かないと親に起こされて、行けってボコボコにされるので、行きましたね。

では当時、夢中になったものはあるんですか?

小学校5年生頃の話ですが、ビックリマンシールってすごく流行ってたじゃないですか。近所に子供からシールを集めて売ってる転売ヤーがいたんですよ。そこに僕も買い付けに行って、それを学校で高値で売りさばいてました。いま、自分のアーティスト活動を法人化して会社経営をしていますが、原点はビックリマンシールの転売かもしれないですね。

なるほど。では、中学校はどう過ごしていたんでしょうか?

中学校では勉強しましたよ、結構。悪ガキの仲間3人ぐらいで話し合って、そろそろ真人間になろうと。それで勉強ができるようになれば普通になれるだろうという話になったんです。

普通になれるというのは、普通じゃないという感覚はあったんですか?

当時はありましたよね、変わってるとかではなくてアウトサイダー的な。勉強をやるようになってからは、みるみる成績が伸びました。中学校の勉強って小学校の勉強の上にある勉強ですから、形式的に勉強すればできるんです。小学校の勉強はかえって難しい。1+1=2とか難しくて解けなかったんです。根本的なところに触れてしまうのが小学校の勉強というか。

1+1がなぜ2なのかという、哲学的な問いを持ってしまう。

そう。でも、そう考え出すと進まないじゃないですか。だから、中学校では形式的に勉強をするようことを意識していました。すると、成績が上がったんですよ。それで、親と取引しましたね。

取引?

当時、僕の偏差値が、60だったんですよ。10上げて70までもっていくから、そうしたら30万円くれと言ったんですよ。

中学生が30万円を?なにか欲しかったんですか。

いえ、それは確か貯蓄しました。偏差値を10上げることができたので親から30万円、きちんともらったんですよ。

その後、進学校に行ったと。当時は人生のビジョンはどう描いてましたか?

特にないですね。ちなみに高校は軍隊式の高校で、3日で辞めたくなりました。

なにがキツかったんでしょう?

まず、入学式で校歌を覚えてるか試すんです。部屋を暗くして、校歌を歌えないと先生がいじめてくるんです。それを見たときに、こんなところにいたら頭がおかしくなると思って辞めようと思いました。まあ結果、一応残ることになったんですけど。

勉強は好きだったんですか?

はい。でも1、2時間目は授業をサボって将棋部室で将棋やってましたね。

高校生のときに将棋部へ?

はい。好きになったのは、小学校の後半ぐらいにやったのがきっかけなんですけどね。でも、将棋は本当に強い人たちって小さなころから既に取り組んでいる。僕は結構あとから始めたので、なかなか厳しいなとわかったんですよ。だいたい4段ぐらい持っていないと全国大会に出られなくて。1個前で負けてしまうんです、いつも。

将棋に再び出会って没頭、勉強もしつつ。アートとはまだ出会っていなさそうですね。

まだです。ただ振り返ると、授業で美術の先生がね、油絵だったかな、褒めてくれました。先生に「緑の描き方だけはうまいね」って、そういう変なことを言われましたね。まあ、他であんまり褒められてないから覚えてるのかな。

大学に進学はしたんですか?

はい。はじめはゲームクリエイターになろうと思って、プログラムの専門学校に行こうとしたんですよ。でも、レベルが低いところってあまり話が合わない。そんなときに千葉大学が学費も安いし、通える範囲だし、まあ良いかって感じで受験したんです。そうしたらラッキーなことに合格し、行くことになりました。経済学部にはいりました。ただね、大学生活は最低ですね、つまらなすぎて。僕は『週刊金曜日を読む会』というのに入ったんですよ。それは当時あった薄い500円の、超極左の向けの雑誌ですね。それを勉強する会があって、とにもかくにも左な話をしてるんですよ。

大学生活は最低だ、と。

3か月で辞めました。でもね、東大に行きたいと思って予備校に通い始めたんです。なんでかというと当時、東大には立花隆さんという方の授業があったんです。立花さんの授業は人気もあって、僕も受けたかった。親には、司法試験を受けたいから、と千葉大を辞めさせてもらったんですよ、嘘ついたんです。司法試験は千葉大より東大のほうが受かる人が多いので、東大に行ったほうが良いでしょ?と言って合法的にやめたんですよ。でも、早稲田に受かったので、早稲田に行きました。

それじゃあ、親御さんに言った手前、そこからは弁護士を目指すんですか?

そうですね、まあでも親に向けた建前なので本当になるつもりなかったんですけどね。だから就活しながら、弁護士の勉強も一応ちゃんとやっているっていう状況でした。

勉強のしすぎでハイに。

司法試験の勉強は順調に進むんですか?

順調というか、怒涛です。1日に15時間とか16時間勉強しましたね。時間もないので速聴という勉強方法を取り入れていました。するとね、メンタルが落ちてくる。だから、メンタルを保つために松下幸之助さんの本をポケットに入れて読みながら予備校に通ってました。本に、「じっと芽が出るのを待ってる」と書かれていました。あぁ自分も頑張ろうと思って。

僕はある日、勉強をしすぎまでいっちゃって躁鬱の躁になりました。渋谷の予備校へ移動している道中も頭がおかしくなって街行く人たちに全員に挨拶してましたね。「おはようございます」って挨拶すると、「おはようございます」って知らないひとが返してくれる。そうするとなんだかすごくうれしくなっちゃって、より頭がおかしくなってくるんですよね。

本当におかしくなってきて旅館で静養することも試してみたんですけどダメで。病院に行ったら医者に「君は勉強は向いていない、だからやめなさい」と言われました。

勉強をやめることになる。その後どうなるんですか?

1年間引きこもって家で寝ました。その後、旅に出ました。立花さんの「精神漂流」という本にオーク・ヴィレッジというのが出てくるんですが、それもあって飛騨高山のほうに行くんですよね。その後、宮崎のほうへ行ってそこで倒れます。

宮崎の、駅から20キロぐらい離れたところを歩いて、レストランに行ったんです。その時もう3日ぐらい食べ物を口にしていない状態だったからお腹が空いていて。その時の僕の表情があまりにも不憫に見えたんじゃないですか?レストランのオーナーが、「君、これ食べて良いよ」って肉を出してくれたんですよ、だから食べたんですよね。知ってますか?3日ぐらいなにも食べなかったりとか、精神的にまいっているとき、いきなり肉を食べると脳がぐるぐる回るんですよ。体って結構刺激に対して弱いので、クラクラなっちゃうんですよね。それで気づいたら、森の中に入りこんでました。

じゃあ、森で倒れたんですか?

そうです。まぁまずは森に入りこんで、そこで一晩過ごしていた感じでした。そこで変な体験をしました。

森でラジオを聴いていたら変な声が聞こえてきました。病院の先生にこれを話すと幻聴と言われますけど、『人類のレクイエムを作りましょう』みたいな声がラジオから聞こえてきたんです。なにか鈴をつけた生き物が移動してる様子も見えましたし、そういう神秘的な感じだったんです。

そこから病院ですか?

病院ですね。療養スタートです。精神的な病の人って精神病院に行くじゃないですか。そこで作業療法としてやっていたのがアートセラピーで、そこでアートと本格的に出会うことになりました。

作業療法としてアートに出会う

なにか自分の中でアートに手応えはあったんですか?

絵画教室で、絵を褒められたんですよ。あんまり褒められたことがなかったんです、人生で。だからこのまま続けてみようかなと思って。そこからですね、スタートは。

そこから路上に出るまではまだ?

路上はそうですね、展覧会をやりたかったんですけど、お金もないし。ピーター・フランクルさんという海外の数学者の人がいて、その人が埼玉の道端でジャグリングしているのを知っていました。あぁ僕も道端でアートを売ろうかな、と思って。それでピーターさんと同じ場所で、小さな絵を売りはじめました。

それは売れていったんですか?

よく売れたんですよ。恐ろしいことですね、よく考えると。

戦略的な発想でアートを開始する。

そこからいよいよアーティスト活動開始ですか。これまでもっていた弁護士への夢や、好きな将棋への未練はなかったんでしょうか。

そうですね。将棋はもう、適正年齢があるなぁと諦めました。野球でもそうじゃないですか、フルスイングしたときに一番スイングスピードの速いところでボールに当たらなきゃダメです。僕はそういうスピード感で将棋を始めたわけじゃなかったですからね。でもね、アートは40歳から勝負してる人も結構いました。そういった意味でも当時、アートが一番おもしろいと感じましたね。

ずいぶん、戦略的ですね。

可能性があるかな、と。戦略は重要ですよ。そこから偶然が生まれることもありますし。

例えば、僕は2018年にアルスターミュージアムに自分の絵を寄贈しました。なんでかというと当時、持ち込んだ絵が売れなかったので、あるNPO法人に置いていこうと思ったんですよね、いってしまえば、イギリスで絵を捨てて荷物を減らして帰国しようと。そんな気持ちで寄贈してこようと思ったら、流れで美術館へ収蔵することになりました。それがきっかけで売上が倍になったんですよ。3年間ぐらいで倍倍倍いったんです。それなら法人化しようかって感じで会社経営をすることにも繋がりました。

なるほど。絵については、海外で評価されたのがインパクトになった?

そうです。逆輸入的に日本で絵が売れるようになりましたね。当時ヤフオクを使っていたんですが、ヤフオクは今みたいに実際に売れるようなものを出品するような使われ方ではなかったんですよ。そこをあえてちゃんとした額をつけてきちんと売り始めたんですけど、それがよかったです。

そうそう、コロナの時期は、ガクンと売上が下がったわけですよ。やばいじゃないですか。でもね、そのときにヤフオクに出した絵がありました。4万円くらいで落札されるかなと思っていたんですが、価格が爆上がりして120万円ぐらいまでいったんですよ。あとから知ったカラクリですが、いつものお客さんとニューカマーのお客さんがヤフオクで競り合ってくれた、と。それでニューカマー側も負けず嫌いだったらしく、3時間ぐらい競りまくって、1枚の小さな絵がものすごい価値になってしまった。当時コロナで他の娯楽が自粛っていう背景もあったのかな。

ヤフオクで一騎打ちで?

はい、それを見たときはびっくりしました。でもそういうことがあると、しばらくはその価格帯で取引されるんですよ。だから絵が1枚70、80万円で売れるようになってきて。以前は4、5万で売ってたんですよ?ラッキーでしたよね。良いか悪いかわかんないけど、少なくともそれがなければ、コロナの時期で僕、終了してました。

今では結構ファンもついてね。

そうですね。今度ニューヨークでも展示をやってきますよ。その展示ではね、Tシャツも売る予定なんです。最近は発達障害、精神障害の人、子供たちの絵ってあるじゃないですか、それをデザインしなおしてTシャツにしているんです。

アーティスト田中拓馬の、プロデューサー的な能力も開発中と。

そうですね。楽しんでいます。僕が尊敬している人で、織田哲郎さんってヒットメーカーがいるんです。あの人はいろんな人の歌詞楽曲を手掛けて、書いてますよね。たくさんの歌手をヒットさせた、裏方のひととして尊敬しています。僕も今回は、自分の絵をあまり全面に出さないで裏方役もやっています。

ナンパの戦略

ところで、ニューヨークでの展示ではコネクションが重要かと思います。力のある人をどう口説いているんでしょう?

すべて戦略です。まず、エージェントのさがし方で言うと、当時Facebook広告を流しましたね、ニューヨークに向けて。

いろんな広告を出した?

はい。こういう絵を描いている、興味のある人がいたら僕のホームページを見てください、みたいな。それを見て、いいねを押してくれる人がいました。それが、後にエージェントをやってくれるロバート・デュポントとの出会い。彼と友達になってメッセンジャーでやり取りをして、彼に会いに行きましたよ。エージェントを頼みたいと売り込みに行くんですよね。オレンジカウンティという、L.A.の南のほうで会いました。

それは全部戦略ですよね。

僕、将棋やりますからね。

将棋で培った戦略的な発想ですか。

はい。会って彼にエージェントをやってほしい、と。そうしたらまず、銀行に行ってお金をおろしてこいと言われました。だからシティバンクに行って外貨の2000ドルだったかな、それを渡して契約書を交わして。

そこからのお付き合いですか?

そうです。結果、彼は頑張ってくれました。あるフランスのシャンパンメーカーのギャラリーとか、あとはニューヨークにグッゲンハイム美術館ってあるじゃないですか、その一族がやっているギャラリーを新規開拓してくれたり。

それは頼もしい。作品づくりに専念できますね。

いや、そうでもなくて。彼、体調が悪くてね。いいお歳なので、リハビリが必要な状態だったんですよ。それで休んじゃうんですけど、そうなったときにまた別のエージェントが僕に話をしてきて、ちょうどコロナの時期ですね、僕の絵をオークションに出せると言った人がいたので、ロバートとは切っちゃうんです、契約を。

別の敏腕エージェントが見つかったから?

見つかった。というか、そもそもこっちは毎月2000ドルぐらい払うので、なかなか高額で。

毎月2000ドルですか?はじめの契約金だけじゃなくて?

だけじゃなくて。新しいエージェントの方は、契約金はゼロドルで良いと、成果報酬でやると言ってくれたんですよね。40%とか50%もってかれてはしまうんですけど。

結構持っていくんですねえ…。

そうですね。ただこの人は全然役に立たなかったなぁ…。そんなこともありますけどね。

まあ結果はいろいろ、と。それにしても、1つのFacebook広告から始まったストーリーですよね。拓馬さんの手口がおもしろいですよね。

そうですね。僕、女性を口説くナンパも得意ですよ。日本でよく外国人をナンパしていました。当時、バーで働いている外国の女の子たちがいたじゃないですか、彼女達に声を…。基本的には「nice to meet you」と言葉をかけるだけですけどね。ナンパは将棋と同じですね。

どう詰めていくかという?

そうですね。データですよね。将棋をやるときに、相手の得意戦法・苦手な戦法とかあるじゃないですか。何局もやってるとわかるじゃないですか。そういう分析と近いですね。だからこの言葉を使えば反応が良いとか、これは負けちゃうとか。ナンパと将棋、近いと思います。

それじゃあ、将棋やってみます?これ収録できるのかな。

いいですね。島田さん、一番好きなのはどの駒ですか?

桂馬とか。

桂馬が好きですか、渋いですね。将棋を見ると人格がわかります。あぁ、島田さんも結構思い切った感じですね。

そうですね。…対局中、言葉が少なくなりますね。

…ですね。ちなみに僕、手を抜くのあんまり好きじゃないですよ。

そうそう、坂本龍馬っているじゃないですか。あの人の逸話が面白くて。龍馬がね、商談相手と将棋をやったらしいんですよ、1回目は龍馬が勝つんです。でも、2回目は龍馬が負けるんですって。まず勝っておいて自分は強いということをみせてから相手に勝たせると、基本的に相手は気持ち良くなる。これ、ナンパみたいなものじゃないですか?相手を気持ち良くさせて、自分の思いを遂げるというか。これは坂本龍馬流のナンパ術だと思ってます。

なるほど。あ、そう言ってる間に僕の負けですね。なかなか、グイグイ行こうと思ったんですけどね。

将棋は個性が出ますね、絵を描いても性格が出ますが。島田さんは普通じゃないなという感想です。

そうですね、撃沈するタイプ。

いやいや、かなり強気な手を打ってました。こうって決めたらガッてやるタイプなんだなと。

わりとそうなんですよ。将棋は、対話してる感じで楽しいです。拓馬さんはどの駒が好きですか?

僕は飛車とか…基本的に大駒が好きです。派手好きということですね。でも本当に将棋のうまい人は歩がうまいひとだと聞きますから…ね。将棋っておもしろくて、勝った負けたがあるじゃないですか。でもその後に感想戦ってあるんですよ、本当は。そのときに必ず、勝ったほうが負けたほうの、この手をやっていたら勝っていたでしょう、ということを話します。そうすると勝ち負けを超えて対局相手との交流とか、友情や絆を確認できます。

結婚という契約制度について。

将棋、ナンパが得意だと。ナンパつながりで少し違った角度から。女性は好きなんですか。

はい。

結婚とかは?

まぁ深い話はカットしてほしいですが、僕には向かないかな。

契約的なところが向かないですか?ドイツの結婚は7年に1回の見直しがあるそうです。自動更新じゃなくて、「続けますか?」みたいな。

それがあると…あれですよね。別れちゃったらどうするのかとか、あと男性だったらあれじゃないですか、女性がいたほうがうまく回るじゃないですか。なんでかというと、家のことが性質的に苦手だったりする。契約継続か打ち切りか、毎度判断が難しそうですよね。

そうですね、結婚継続というのが良いのかどうか。

恋愛はエントロピーが増大するって言われるじゃないですか。どんな恋愛をしようとはじめが一番ハッピーなので、あとは崩壊に向かっていくというか。絶対別れちゃう方向に向かうはずなのに、どんなに良い夫婦だって、努力してエントロピー増大を抑えてるわけじゃないですか。だから家庭崩壊しちゃうわけなんですけど。そういうのがあるので、契約ってなると難しいと思ってしまいます。

僕は頭がやわらかい人じゃないと付き合えないですね、絶対。女性のパートナーが浮気しても良いし、どこかへ行っちゃっても良いしとか、そういう感じじゃないと付き合いきれないと思います。僕も自由。相手も自由がいいですね。

なるほど。あんまり束縛しあわなくて、干渉しない関係が良いと?

良い。でも契約ってなるとね…。恋愛はプラスの面はたくさんあるでしょ、海外行こうよとか、おいしいものを食べようとか、楽しいこと。でもね、その相手がもし病院で寝たきりになっちゃっても、その人を愛し続けられるという気概がないと契約はできないじゃないですか。

リスクとかもありますもんね。

経営者だったらリスクを考えるじゃないですか。だから、結婚は僕からすると正直わけわからないですよ。

結婚できれば誰でも良いという人もいますね。

それはわかりますけどね、就活したいとかあるじゃないですか、会社に籍があるのと、フリーターでいるのと違うじゃないですか。

そうですね。結婚したという社会的安心が欲しい。

欲しいですよね。嫌じゃないですか、だって世間で生きてるんだから。「私結婚してるのよ」って言えるのと、「私結婚してないの」というのと違うじゃないですか。世の中、肩書で安心する人いますよね。

いま気になる、足さない生き方。

ところで島田さん、生まれはどちらなんですか?

生まれは栃木の真岡市というところです。真岡出身で名古屋の大学に行き、鳥取に移住して10年ぐらいになりますかね。鳥取県智頭町に森の幼稚園という幼稚園があって、息子のためそれを目当てに移住した感じです。その幼稚園は園舎がないんですよ、建物がなくて。雨でも雪でも外で過ごすというコンセプトなんです。

おもしろいですね、そんなのあるんですね。

そうですね。毎日お弁当でしたし、週に1回料理の時間があるんですけど、できなかったらご飯なし。なかなかそういうおもしろい園です。発祥は北欧とかドイツ、スウェーデンとか。 もともと幼稚園というものは、森を子どもと一緒に歩くことが始まりで、それを復刻させたということらしいのですが。

じゃあ、今の幼稚園がやってることと真逆ですよね。

真逆ですね。お弁当はあるんですけどお弁当の時間もないので、食べたいときに食べる。そうそう、僕の息子が提案してダウン症の友だちのために手話を学ぶということもやりました。

逆ですね、発想が。目的のために手段を考えるというのではなくてね。どうやって生きていくのが良いかという部分が自然に育つ、協調性が育つ、いいですよね。今、東京にない発想ですよ。行きたいですね、森の幼稚園、そして智頭町。島田さん、そういう自然豊かな生き方を大事にしていたら、東京で生きろといわれたらしんどいんじゃないですか。

そうですね。智頭町自体が、ガラパゴス的な独自の進化をしてるというか。

人類はもう、近代以降のシステムを回していくのって限界じゃないですか。資源の問題なんかも、もう行き詰まっています。この次のステージ、どういう社会が待ってるんでしょうね。足し算すると幸せになると思ってる感じがするんだけど、もう足さないっていう勉強になる例ですね。

おもしろい例かもしれないですね。ぜひ一度遊びに来てください。

本対談は、六本木のギャラリーで偶然に拓馬さんと出会ったことから実現していった。はじめてお会いする拓馬さんが、裏からひょっこりと現れ、直筆の1枚の似顔絵をプレゼントしてくれたのだ。知らぬ間に自分が描かれていた事に素直に驚き、どういうことだったのか?ともう一度お会いし、確かめたい気持ちにさせられた。拓馬さんは、ただ通り過ぎていたかもしれない交錯を、とても色濃いものにしてくれた。これもすべて戦略上のことだったのかもしれないが、この場を借りて改めてお礼を言いたいと思う。

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TAKUMA_TANAKA

1977年東京都江戸川区で生を受け、学生時代は将棋に没頭。大学進学後は弁護士を目指し勉強をするも2度の司法試験に失敗し、幻聴を経験するなど精神的に不安定な状態に陥る。リハビリとして始めた絵画制作で、自身の戦略性と芸術的才能が合わさり実を結び始める。「路上から世界へ」のスローガンのもと粘り強く活動をつづけ、絵画作品「Blue Rose」がイギリス国立アルスター博物館に収蔵されるなど、画家としての快進撃がを繰り広げる。将棋で培った柔軟な戦略思考を武器に、自信が共感するというアウトサイダーの領域への足を踏み入れ、2023年には、ニューヨークで精神障害や発達障害を抱える子供たちと共同でTシャツ制作プロジェクトに取り組むなど、精力的に活動を展開している。

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