Talent No.26
DAISUKE_MINAMI
Chef-Bard
- #永遠の異邦人
- January 15th, 2026
profile
南大祐(みなみ だいすけ)。京都生まれ京都育ち。学生時代はラグビー、パンクロック、文学に没頭。2003年に神奈川・辻堂で豚骨ラーメン専門店『らーめん南』を開業し独立。2016年には石川・野々市で牛スープ創作ラーメン『金澤流麺らーめん南』を手がけ、2021年ミシュランガイド北陸特別版に掲載。現在は飛騨を拠点に、店を持たず自由なスタンスで活動する吟遊料理人。世界各地の食文化を横断し、風土と素材から立ち上げる妄想世界料理を探求し続けている。
島田晋輔と南大祐
南さんとの出会いは、2023年2月の金沢。芸大の友人から、卒業展示会に招待されて伺った時のこと。
当時のLINEの投稿が見つかりましたので、ここで共有します。
その後、2025年8月にTHE AIRPORT主催の動植物イベント『PRIMAL PLAZA』にて南さんに出店していただきました。ラーメンやイベントのコンセプトに合わせた妄想世界料理のフムスを提供してもらっただけでなく、一緒に前夜祭や後夜祭を楽しんだり、トークショーをしたり。パートナーの真由美さんには一本歯下駄ippon blade体験会も開催してもらいました。
実は、今回の取材でお会いするのが3回目。とは思えないほどにディープな語らいを。
8月にお会いして、わずか数ヶ月ですが、南さんはまた一段と変化を遂げていました。
ぜひ、交錯をお楽しみください。
お店を持たない多拠点スタイルで再出発
2021年、ミシュランガイドに掲載されてわずか4ヶ月後の閉店。それから偶然、金沢のカフェで出会うんですよね。
島田さんとの出逢いはお店を閉めてから2年後、47歳位の頃ですね。
その頃は「ラーメンではないスープヌードルキュイジーヌ」とお聞きしました。
スープヌードルキュイジーヌの構想は、『らーめん南』の頃からすでにありました。店を閉めたことで、もうこれはラーメンじゃないと思いきり言えるなと思って、名乗るようになりました。まだ当時は作品を作り続けて存在証明したい、と躍起になっていた時代です。島田さんと出逢った頃は、金沢でもう一回店をやろうと思ってました。ミシュランの威力で、色々声をもらいましたが、その度に、金儲けしようとしてるみたいに感じて、どんなに条件が良くても飛び込めず憂鬱になりました。
やっぱり、繊細ですね。
俺、もしかしたらもう店やりたくないんかもしれへん、と気づきました。一つの店で人を待ち続けて、評価にさらされて、サンドバッグみたいに打たれて。
飲食を嫌になったわけじゃなかったんですよね。
お店を持つという形式に疑問がありました。契約してリスク背負って投資みたいにお金を用意して利益で回収する、ということに馬力が湧かなくなりました。歯を食いしばってやるのではなく、無邪気に出来ないかな、と思いました。とりあえず店舗を持たずに間借り営業を始めました。場所代を払えばリスクもないですし、待つより出向いた方が出会いが広がりリスクも少ない、思う存分好きなものを作ろうと思いました。
その時に福井でラーメン店プロデュースの仕事が舞い込んで、初めて自分が商売する以外のラーメンを考案する機会をもらいました。月2、3回福井に通う生活が始まって、多拠点で仕事をする生活が始まりました。
内気で内向的、京都での少年時代
南さんって純粋ですよね。どんな少年時代だったんですか。
僕はとにかく内気で内向的な子供でした。友達をつくるのが本当に下手だったんです。特に保育園の頃は、特定の友達としか遊ばないし、その友達が休んだらずっと一人でいました。ガキ大将みたいな子とは絶対遊ばなかったです。だからサッカー、泥遊び、みたいな人数が必要な遊びには参加してなかったですね。自然と生まれるヒエラルキーみたいなものに入れなかったんです。泣き虫で弱虫で、ものすごい繊細な子供でした。
今でも繊細な方だと思います。
自分では「繊細です」とは言えないですけどね(笑)
今日頂いたフムスやカレーからも感じますし、明るいキャラクターでありながらも言葉の選び方や人との接し方に繊細さを感じます。
自分では意識してないですね。子供の頃は、ほんまこいつどうにもならへんなって親がよくため息をついていたらしいです。僕があまりにも人と遊ばないので、母親が公園まで連れて行って、仲間に入れてもらおうとしたらしいんですけど、僕は入れなくて泣いて帰りました。母親は、この子はまともには育たへんやろな、と思ったみたいですね。
ただ、お調子者というか、おちょけみたいなとこもあって、注目を浴びるのは好きだったんです。保育所の誕生日会で、みんな特技をやるんですよ。縄跳びや跳び箱をやる中、僕は粘土の塊から象を作ったんです。それが子供が作るものとは思えないと喝采を受けて、むちゃくちゃ快感だったのを今でも覚えてます。だから運動より、お絵かきしたり、粘土こねたりする方が好きな子供でした。
ものづくりの原点ですね。
小学校にあがっても、習い事は一切続かなかったです。父も母も、やりたいって言ったことは最初はやらせてくれたけど続かないから、そのうちどうせ続かへんしって習わせなくなりました。書道教室も友達が行ってるから行く、みたいな感じで自発的に通ったことがなかったです。
その後、少年野球を始めるんですけど、これも友達がみんな入ったから、俺も入らへんと遊んでもらえへんって理由でした。正直、野球なんてあんなちっこい球を、細い棒であたるわけないって思ってました。同級生は僕に対して昔から元気な印象を持ってると思うんですけど、僕の中では、みんなと遊び遊びながらも、浮いてんな、馴染めへんな、みたいな感覚がずっとありました。
南さんが前におっしゃってた異邦人の感覚は、もうその頃からあったんですね。
ありましたね。運動は苦手なイメージがずっとあって女の子と全力疾走して負けるくらい遅かったんです。必死で走って負けたらかっこ悪いから、最初からふざけて走ってました。先生にいい加減にせえって言われてましたが、本気でやって恥かきたくないって気持ちだったんです。
うちの中学は、野球が強かったんですが、どう頑張っても補欠になるので、野球はちょっとなって思いました。文化部にも馴染めないし、運動も得意じゃない。どっかに入らないとダメなんじゃないかと一人で外れることもできない状態でした。
先輩の誘いから、ラグビーの世界へ
南さんと言えばラグビーの存在が大きいと思います。ラグビーを始めたきっかけを教えてもらえますか。
中学1年生の頃、背が高かったので先生が体が大きい子を集めようと、ラグビー部の仮入部に誘われました。当時、リーゼントパーマというヘアスタイルがあって先輩全員それでした。ラグビーのヘッドキャップからパーマがカリフラワーみたいに出ていたのを覚えています。そんな世界に、やんちゃのやの字もない僕が入るなんて母親は想定してませんでした。たまたま仮入部で、ごっつい先輩が構えてて、僕がボール抱えてぶつかったら、先輩から「お前筋ええやんけ」って言われて、それで入っちゃうんです。
素直ですね(笑)
仮入部の間、一番先にグラウンドに行ってパス練習して、ちょっとうまくなった気になり、後から来たやつに俺が教えたろうなんて思ってました。
正式入部になった瞬間に、上半身裸、さらしを巻いて金のネックレスして竹刀持った先輩が来て、「1年生、お前ら今日から仮入部ちゃうさかいな」と言われました。そこからは、抜けられない世界でした。
そんな世界があるんですね。
あるんです!ほんまに他校の中学の先輩が攻めてくるんです、戦国時代みたいに。
僕は真面目だったのと、声が大きかったのでキャプテンになってしまいました。同級生はつるんで悪さしてて、僕は悪のわの字もないから、ラグビーが終わったらすぐ家に帰ってロックを聴いてました。
青春時代を彩る音楽との出逢い
ロックは僕も大好きです。ロックとの出会いを教えてください。
ロックとの出会いはラグビーよりちょっと前、小学校6年生の頃です。RCサクセションの忌野清志郎さんは僕の人生に清志郎以前・以後があるぐらいの衝撃的でした。
ある日の朝、新聞を開けたら、アルバム『カバーズ』の内容が素晴らしすぎて発売禁止になったという広告を見て、ダッシュでレンタル屋に行ってカセットに録音しました。往年のロックンロールクラシックスに日本語詞をのせて、戦争反対とか原発反対とか、過激な歌詞でした。一曲目の「明日なき世界」が衝撃的で……軽く歌いますね。
東の空が燃えてるぜ
大砲の弾が破裂してるぜ
おまえは殺しの出来る年齢
でも選挙権もまだ持たされちゃいねぇ
鉄砲かついで得意になって
これじゃ世界中が死人の山さ
小6には意味わからないけど、説明のつかないゾワゾワがきましたね。俺が鉄砲担いで戦争に行く日が来るかもしれない、と思いました。むき出しで生々しい、これがロックなのかなって思いました。レンタルショップに行き、限られた小遣いでどれだけ借りて録音して聴くかに夢中でした。ストレートなロックより、ちょっと変則的で陰のあるやつが好きで、UKニューウェーブ、バウハウス、ザ・キュアー、デヴィッド・ボウイ、ビートルズはもちろん、ブルーハーツもプリンスも大好きでした。ブラックミュージックをやろうとする日本人も出てきた時代で、背伸びしてクラフトワークを聴くこともあり、むっちゃ雑食でしたね。
南さんを語る上での三大Rのうち二つが出ましたね。ラグビーとロック。そして、、、
もう一個は後に出てくるラーメンなんですけどね。高校生になって、音楽好きな仲間に恵まれて、僕は楽器ができないんですけど、できるやつを集めてバンドを結成しました。
周りは本気で音楽をやっているやつらばっかりだったので、そいつらの力を借りて、自分が作詞した詩に曲をつけてもらって、俺のために演奏させる、ジャイアンリサイタルみたいなバンドでした。名前は『ルナティック雑技団』。結構本気でやってたんですけど、周りからコミックバンド扱いされてました。周りがハードコアパンクをやっているから、あえてポップスをやろう、人の歌詞は歌わへん、って宣言していました。授業中に歌詞を書いて、作曲担当にメロディーをつけてもらい、全員でアレンジして、カセットに録音して、学校で200円で売ってました。
高校の頃、バンドとラグビー以外に青春捧げたのがミニコミ誌作りです。本を読むことや文章を書くのが好きだったんです。
僕らはクソガキだったので当時17歳なのに、パンクバー、ブラジルバル、レゲエバー、スノーボートショップに、入り浸ってました。そこには、かっこいい不良の先輩たちがいて、その人たちにインタビューをしたらおもろいと思って、カセットレコーダーを持って、お店を始めた理由を聴きました。それを書き起こしてコピーして、1冊100円で売りました。他にも友達のバンドのインタビューや野球部を引退したやつのインタビューを書いてたら、学校中でブームになったんです。
興味深い活動ですね。雑誌名を教えてください。
『サックユース』です。ソニックユースというロックバンドが好きだったので、ソニックっぽい名前にしたかったんです。サックは、しゃぶるって意味もあり、悪態つくスラングっぽい意味もあります。お前ら(教師や大人達)にとって悪態ついてる若者やろ、みたいなニュアンスです。通っていた店の大人たちがすごく喜んでくれて、口コミで、お前のやつ持ってこいって言われて、自転車に積んで売りに行きました。京都7店舗、400部位販売して、楽しかったですね。
ラグビー、バンド、サックユースの3つが高校時代の青春です。
ラグビーの夢叶わず、石川へ
南さんの高校時代の青春。シンパシーを感じる人も多いと思います。その後、京都から石川に引越されるんですよね。
高校の時に親が石川に帰るって言い出して、俺にとっては帰る場所ちゃうしって思って、京都で一人暮らしをしました。家賃だけ送ってもらって、弁当屋でバイトしながら高校へ行きました。バイト先の先輩にも可愛がってもらって、それも楽しかったです。
でもこのままやったら俺、石川に引っ越さなあかんな、絶対嫌やなって感じました。当時ラグビーが強い実業団が京都にあったから、そこに入社すれば京都にいれると思いました。だけど、入社すると朝から夜まで働いて、その後ラグビーでしんどいなと思ってた時に怪我をして、高いランクのプレーはできなくなりました。怪我した途端、周りの励ましもなくなって、そこで僕の中でラグビーがスパーンって終わってしまいました。とりあえず親がいるところに行こうと、高校卒業して石川に引越しました。
怪我をしてラグビーから離れて、、、バンドはどうされたんですか。
卒業のタイミングで解散しました。他の仲間はそれぞれの道を進みました。
石川では、誰も知らない街だったのと、自分には田舎に思えたので、お前らダサいと思ってしまい、そんな態度だから友達もできず孤立しました。ラグビーで挫折してから、目標はないけどエネルギーと自意識だけはありました。俺はお前らとはちゃうぞって心の中で思ってました。でも何をやりたいかわからず人に迷惑ばっかり、ろくでもなかったです。警察のお世話になったこともありました。
暴力性を伴うものは長続きしない
尖っていた頃ですね。当時の話をもう少し詳しく聞かせてください。
石川県に引っ越しした19歳の頃、唯一の楽しみがライブハウスにハードコアパンクのライブに行くことだったんですよね。中学の頃なんかは幅広いジャンルの音楽を聴いていたのが、10代後半にハードコアパンクの衝撃と洗練を受けて、それから数年間はハードコアパンク一色でした。激しさやスピード感、ノイズ、暴力性、そうしたハードコアパンクにまつわる全てが当時の僕にとっては『唯一の真実』みたいにお前たんですよね。もう「ハードコア聴いてないヤツは全員なにも分かってない!」みたいな勝手な思い込みを信じるほどにのめり込みました。今もその頃の人達が貫いてバンドをしている姿やみると、胸が熱くなります。
わかります。その年代の人たち、カッコいい人たち多いですよね!
あの頃は完全にハードコアムーブメントでしたね。僕らが20歳前後の頃って、全国的にああいうハードな音が一気に広がりました。すごかったんですよ、当時どこのライブハウスもパンパンでした。シーンの中心にいた人たちは、僕らよりちょっと年上か、同世代の20代でした。でも、やっぱり暴力性を伴うものって、長続きしないんちゃうかな?なんて考えたりもします。
ヒップホップとかレゲエほどの大衆性がなく、危険な匂いを含んだものって、定着しないです。ピストバイクも一緒だなと思ってます。もちろんそれは僕の意見であって、全てに当てはまるとは考えてませんが。
なるほど。興味深い視点ですね。
ピストバイク、すごいブームだったじゃないですか。あの時、ブレーキをつけないで走ることがひとつのアイデンティティみたいになってる人達もいて、それはそれで貫いていてカッコいいなとは思いましたけど、普遍的には広まらなかったですよね。
話題になりましたね。
僕はピストバイク、今でも好きですけど、あれはおかしいと思って、ちゃんとハンドブレーキ付けました(笑)。知識のない人が、普通のマウンテンバイクのブレーキまで外し始めちゃって。
結果、ピストバイクの人気は一気にドーンと下がりました。
暴力性のあるものって、一時的に火は付くけど、長くは続かへんな、って思います。
何年か前かな、久しぶりにハードコアパンクのライブに行ったらお客さんの年齢層も高くなっていて、ステージも客席も激しいんですけどどこかピースな雰囲気もあって。ぶつかったら「あ、ごめんな」とか言ってて、俺も(笑)なんかみんな丸くなったなぁとか思ったり。でもずっとバンドを続けている先輩方とかほんまにカッコいいし、生き方貫いてるなぁ…って思います。
石川で筆を置き、湘南でラーメンに目覚める
尖っていた南さん。文章の世界から飲食の世界へ飛び込む経緯を教えてください。
石川に住んでいたころ、たまたま京都で友達と待ち合わせでバールカフェにいたんです。友達が来ないなと思ってビールを飲んで待ってたら「サックユースの南くんやんな」って声かけられたことがあるんです。
僕より一回り以上年上の方で「君の文章おもろいし、ようここで読んでたんや」って言ってくれて。「俺も君みたいに文章書いてんねんけど読んでくれへんか」って。
僕は「ミニコミ作ってる人かな」くらいに思ってたら、「上に住んでるし待っててな」って部屋に戻って、持って来はったのが、有名人文誌に毎月詩を連載している人で。
すごい出会いですね。
その後、交流が始まって、ファックスとかで詩を書いて送ったら添削してくれたりして。でもあるとき手紙が来たんです。
「君の詩には才能がある。なんで色んなところに応募して作家になろうとせえへんのや」
ってお叱りの手紙。
それは、嬉しいですね。
でも僕、そのときうっすら気づいてたんですよ。その人たちの苦しさに。
月〜金で働いて、空いた時間で詩を書いて、お金貯めて。現代詩の詩集ってなかなか商業としては難しいから、多くの方が「私家本」として、書き手と出版社が折半してやっと出すんですよ。
1000部くらい擦って、それを500部は関係者に配っちゃうんです。残りを理解のある本屋で細々と置いて、お互い批評し合って…僕にはその世界は少し辛いな…って感じてしまったんです。若かったのかな。
南さんらしい。構造や枠組み、システムに目がいくのですね。アンダーグラウンドは好きだけど、そのシステムに入ると負のループを感じて。そこからどんな流れでラーメン屋で働く事になるのでしょうか。
高校の同級生で、料理の道を邁進して東京で修行している友達がいました。そいつがサーフィンしたいから湘南住むって言い出して、石川から逃げ出したかった僕は、段ボール2箱に生活用品と布団を詰めて、許可なく送りつけて転がり込みました。
許可なくですか。
許可なくですね。友達からは、何してんねんって言われて、俺は芥川賞作家になるとか言って文章を書いてました。
もともと文学に明るいですよね。その頃は文章を書いていたのですか。
現代詩を書いてましたが、結局、飛び込めなかったですね。でも月から金は別の仕事して、空いた時間に趣味の延長みたいにやるのが納得いかなかったんです。何者かになりたいという気持ちが強くて、やるならブルーハーツか村上春樹か、どっちかや、みたいに思って努力してないのに自意識だけ暴走してました。
そんな時、友達が求人情報誌買ってきてくれて、ちゃんと就職活動せなあかんって思って、気づいたらラーメン屋で働き始めてました。
ラーメンには元々興味があったんですか。
それまでラーメン屋になりたいと思ったことないし、味わうとか分からへんかったです。年下の先輩がいる現場で、馬鹿にされたくない一心だけが燃えて、何でもやりますよ、みたいな態度でやってたら、堂々としてると勘違いされて可愛がってもらえました。お店の歓迎会で、ザ・横浜みたいな先輩がお前も地方から出てきて一旗あげるんだろ、頑張んな、って肩を叩いてくれました。でも僕、その手をパーン!と払って「仕事なんか気合い入れてやるか、殴って辞めるかのどっちかなんかすよ」とか言ってるくらいにアホでした。でもそんなアホのことを放っておけない兄貴肌の先輩って、世の中にいるもんなんですよね。その方が「店長、こいつ俺につけてください」って言って。
可愛がられてたんですね。
その先輩が厳しくしてくれて、店長に掛け合って、あいつには責任を持たせるべきだと、本来信用をつけないといけないポジションにつけてくれました。当時の僕は、それを知らず、俺の実力で勝ちとったと思ってました。
先輩がお膳立てされたのは当時は知らずに、後々知ったんですね。
「俺がラーメンの申し子や」という感じで、張り切って働きました。
僕のいたラーメンは治安が悪くてやんちゃな人が多いエリアでした。ある日、いつも昼間から来てる客が、僕を見てニヤニヤ笑ってて。口説かれるんかなとか思ってたら、ラーメン持っていった瞬間、そのお客さんがこらえきれずぷぷーって笑って「最高だわ、お前見てると元気でる」と一言。でもその後、急に顔色を変えて、
「この店で、お前が作った時が一番うめえ。」
って言ってくれたんです。その瞬間、全身さぶいぼでした。
嬉しいですね。そんな言葉をかけてもらうなんて。
今までラグビーもロックも文学も全部中途半端に投げ出して、薄々、自分に才能がないのも分かってたんです。でも、こんなストレートにレスポンスもらったの初めてやと思いました。バカにされたくないだけの突っ張りをやめよう、俺は本当にラーメン屋として生きていこうと思いました。
それ以降、生活態度は改めなかったけど、仕事への向き合い方を改めました。休みの日もラーメンを食べに行ったり、自分の小遣いで小さい寸胴鍋買って煮込んだり。頭の中は、オリジナルなラーメンを作りたい気持ちで占領されてました。普通の人なら30歳までに独立とか考えるけど、僕は独立とかどうでもよくて、純粋にオリジナルのラーメンを作りたいだけでした。
当時も純粋だったんですね。純粋にラーメンに夢中だった。
独立しようとか全くなかったです。オリジナルなラーメンを作れたらそれでいい、そんな事を考えていたんです。そしたらご縁があって、2年後、27歳の頃に藤沢市の辻堂で店を出したのが「らーめん南」の始まりです。
そこからめっちゃ頑張って、30歳を過ぎた頃、とんでもない人気店になりました。瞬間最大風速として、湘南であれだけ客集めた店は、うちだけだと思います。
そうなんですね。1日にどのくらいつくってたんですか。
一人で始めた店で、一番たくさん売った日で1日570杯でした。スタッフもパート含めて40人位になりました。朝から晩まで働いて、その時は調子にのってた自分もいて、俺よりうまい豚骨醤油があれば持ってこいや、みたいな感じでした。
3つの違和感
らーめん南、大成功じゃないですか!どうしてやめてしまったのですか。
35歳の頃、環境、健康、創造性の3つに違和感を感じるようになってきました。
一つは東日本大震災です。神奈川は直接被害は少ないけど計画停電があり、電気が止まって地域は真っ暗、冷蔵庫も止まり仕事ができなくなりました。こんなにエネルギーに依存してる仕事なんやって突きつけられ、都市生活の賜物なんだと思いました。人気店だったから仕入れ量も多く、骨が百数十キロありました。既製品の大きな寸胴鍋を4つ並べて、一日中ガスで全力で炊くのでガス代も数十万、ゴミ代もすごいお金を払ってました。
そこで環境意識が芽生えました。周りの先輩もエコ事業を始めてて、何かアクションしなきゃと思いました。
二つ目は健康面です。朝から朝まで働いて心身くたびれてました。夜中1時半までやってましたからね。ずっと支えてくれていたサラリーマンの常連が、「嫁にスープ全部飲むなって言われるけど、残業頑張ったから今日ぐらいいいよね。」って豚骨醤油スープを飲み干したことがありました。
そのスープにどんだけ油が入ってて、どんだけ塩分があって化学調味料を使ってるか、僕が一番知ってました。だから、どうぞどうぞって胸張って言えない自分がいました。お店始めた時は、うちに健康求めんな、ガツンと衝撃の味で気持ち高めてやるのが俺の役目って思ってました。
でも自分自身が30歳半ばを過ぎて、体も重く腰も痛く、吹き出物も出る。カウンターを挟んで、僕も客も同じ罪悪感を抱えてる。ご褒美じゃないと飲めない、僕も心からどうぞと言えない。これが一生続けたい仕事か、という問いが生まれました。自分は10年先もお客さんと付き合いを続けたいと思っていたので、いつか来なくなってしまうのも寂しいと思いました。
三つ目は創造性です。湘南に来るきっかけになった料理人の友人が、京都でフランス料理店を出して、ミシュランで星を獲得しました。僕は彼の努力も才能も知ってるから当然だと思うけど、周りはあいつすげえって沸騰しました。その時、置いてかれてる気持ちが出てきました。俺は彼より10年先に店やってんのに、同じ味をひたすら作り続けて、独創性も創造性もない。
俺、クリエーションしたかったよな、オリジナルを作りたかったよな。文章もバンドも、自己表現したかったのに店を維持するためだけに忙殺されてる。何のためにラーメン屋になったんだっけ、と思いました。
なるほど、今の南さんを形作る3つの違和感ですね。当時の年齢は30過ぎたくらいですか。
ちょうど35歳くらいの時ですね。その頃から、本当に良いのかなと思うようになってきました。
湘南の店を離れて、もう一回石川に引越して、3つの違和感を全部解消したお店を出そうと思いました。
心から納得のいくラーメンを目指し、再び石川へ
それで、一度お店を閉めるんですね。
環境面では、メニューを色々工夫してゴミを減らすようにしました。全部がエコロジーじゃなくても、自然環境によりそいたいな、と。テーマとして地産地消を掲げました。地域の素材を使い、人や感情や物や金の流れも循環させ、ちっちゃな店でもメッセージを発信して社会が連動するような店にしたいと思いました。
健康面では完全無添加とし、調味料も厳選しました。塩分も油分も、成人男性の1日摂取量の3分の1を絶対超えないというマイルールを掲げました。
ラーメンで達成するのは中々難しいことですよね。
スープもどうぞ飲んでくださいって言えるものを目指し、最初は全然美味しくできなかったけど、時間と共に自信が持てるものになっていきました。
最後に創造性という点では、どこにもない作品を生み出そうと決めました。でも、頑張れば頑張るほど、世間のラーメン像からかけ離れていきました。お客さんは、俺たちは何を食わされてるんだろう、と理解されず、それに対して絶対迎合しないと思ってました。わからしてやる!と。
わからしてやる、ですか。どこにもない作品のラーメンってどのようなラーメンだったのでしょうか。
牛メインのフレンチのブイヨンのようなスープで、世界中の料理のエッセンスと物語性を詰め込みました。メニューも「羅針盤」「虹の橋」とかコアなタイトルをつけてました。でも全く売れなくてね。その頃は、お金もなくて、コンビニで100円のコーヒー買うのも罪悪感でした。
やりたい事に振り切って、自分100%。ビジネスとしては苦しい時代だったのですね。
でも打開するのは、売れるラーメンじゃなくて、己の全部をさらけ出した表現で、人の心を震わせたらお客さんは来るはずだって信じて、こだわりもメッセージも詰め込み続けました。3年目くらいから徐々にレスポンスをもらえるようになって、熱心なお客さんに囲まれるようになりました。
熱心なお客さんに囲まれ出した。お客さんからの反応が出る前と後では、どんな違いがあったのでしょうか。
単純に美味しくなったんだと思います。最初はこだわりと言葉が強くて味が追いついてなかったです。試行錯誤でオリジナルな麺料理としてのラーメンをみたいなものをつくろうとして、結果あじが伴わなかったので口先番長みたいな状態だったので、石川で一番嫌われてる店って言われてました。
石川で一番嫌われてる店っていうのも凄いですね。
でも、その前評判をくぐり抜けた猛者だけがカウンターに来てました。「南さん。信じてます」って言うんです。そういう人が増えるほど僕は勘違いしていきました。
コアなファンだけですか。まるでカルト集団みたいですね(笑)
そうです、南と書いてカルト、という感じでした(笑)
みんな『サックユース』読んでたんじゃないですか。
さすがに読んでないですが、ブログは読んでくれてましたね。ブログもフェイスブックも書き倒して、よその店を批判することもあったので、そりゃ嫌われますよね。最後は味じゃなくて店主の顔がブサイクとか、性格悪そうとか言われました。そこがまた僕の怒りに火をつけて、エネルギーに変えていました。そんな状態で働いてるから、限界を迎えました。
どういった限界だったんですか。
心身ともにギリギリで朝起きれない、寝ても疲れがとれず、常にうなされていました。これ以上アイディアが出なくなりました。
ちょうどその頃、ミシュランガイドに載せてもらえることになり、載った日の夜から満席になりました。メディアの威力はすごいと思いましたが、僕はもう疲れ切っていました。載る以前から、もう無理がきてる、いつか倒れる、って薄々感じてました。ミシhュランを世間からいただいた通知表だと思おうと思って、お店を閉める決意をしました。
今までついてきてくれたお客さんは驚きますよね。
ミシュランガイド掲載から4ヶ月後に閉店になり常連はびっくりしてました。「これからじゃん」、「南さんやっと報われたのに」って。それまでアンチをしていた人も来てくれていたのに閉めたので、ラーメン業界がちょっとざわつきました。でも辞めるにはあれ以上のタイミングはなかったと思っています。辞めた理由がわかりづらかったので憶測も生まれましたが、こっちから語るものじゃないと思って、一回自分と向き合おう、白紙に戻そうと決めました。
上宝・金沢・福井の多拠点生活
多拠点のイメージは最初からあったわけではないんですか。
あったはあったんですけど、現実味がないというか、最初は、イメージが膨らまなかったですね。そんな時に福井市の街づくりの会社から依頼があったのを機に多拠点で仕事するってこういうことか、店持たなくても生きていけるぞと初めて感じました。
そのタイミングで石川出身で既に高山市上宝に移住してる今のパートナーと出逢いました。その方に、高山で出張料理してほしいって頼まれて、高山って観光都市のイメージしかなかったけど、金沢から通えへんこともないなって思いました。
沖縄で店をやる話もあったとおっしゃってましたよね。
福井のプロデュースの話が1年がかりであったのでお断りしました。今のパートナーと出逢ってなければ沖縄にいたかもしれませんね。
ラーメンは単価が安いので、100人、200人に売らないといけないです。薄利多売から、もっとお客様と向き合うためにコース料理にして様々な料理の中に麺料理をとりいれるスタイルを考えるようになりました。料理の勉強を始めたのは、27歳で初めてお店を出した時、あれ?俺なんにもできひんのに独立してもうた…と思って独学で始めました。和洋中、手当たり次第に専門車の料理を真似して作って、その頃からほとんど寝てないような人生を送っています。(笑)
高山に来て、無農薬の農家さんから野菜を受け取った時、素晴らしかったんです。石川で地産地消やろうとしても、欲しいものが富山や能登や福井にあったら駆けずり回る。でも奥飛騨にいたら、水は汲めるし野菜はすぐ目の前、猟師がいるからイノシシも入手できる。山奥なのに素材が全部揃ってこんな環境で料理作るのもいいかも、と思いました。
豊かですよね。
その後、ある店舗の定休日を使って料理をつくってほしいと頼まれて、週の半分高山、週の半分金沢、月に1回福井、みたいな働き方ができるかもと二つ返事でやりますって言いました。
抱えていた3つの違和感はクリアになってたんですね。
めちゃくちゃクリアになりましたね。
高山の自然を通して自分と向き合う
その後、ご縁も重なって智頭でのイベントにも出店してくださって。
最近、また大きな心境の変化がありました。島田さんと出逢った頃は多拠点で料理の表現をしていくぞと思っていました。
ラーメンはコミュニケーションツールとおっしゃってましたよね。
大きな転機は自分で畑を始めたことです。畑はプロの農家がやること、俺は材料を買って料理を作る、と思ってました。でも縁があって畑を始めたら、発見だらけでした。雲の流れ、夏と冬の雑草、虫に食われたり、食いきれないほど実ったり、そんな自然の移り変わりを定点観測すると、向こうから恩恵も課題も投げかけてきます。
僕も自然が大好きです。面白い発見がありますよね。
食いきれないキュウリを前にした時、どうすんねんって思う反面、こんだけキュウリあったらこれ以上飢えることないやんと思いました。種を採取するとか土をよくするとか手間はかかりますが、時間をかけて得るものがあります。畑に費やす時間が、売上から買い出しをする仕込みをする時間と同じ時間だと思ったら、俺は何を歯食いしばって自己表現だって言ってたんかな、と思いました。
結局、輪に入れない不器用さから始まって、好きでやってたはずのラグビーもロックも文章も、承認欲求や虚栄心が混ざって、本当の自分が分からなくなってたんだな、と気づきました。
なるほど。
店を畳んだ後、本もよく読みました。哲学、社会学、スポーツ選手の伝記も。でもそれで何か獲得しようとすること自体、自分を見つめるんじゃなくて外に答えを探して持ってきて納得させようとしてたのかも、と思いました。だから一旦、本を読むのをやめて、畑で草むしりしながら、時間をかけて対話しようと思いました。
自分と向き合う時間ですね。
そうこうしてるうちに、飛騨地方の有名な木工会社のカフェレストランで、アドバイザー兼スタッフの依頼を受けました。最初はメニュー監修かなと思って受けたけど、入ってみたら必要とされてるのは料理スキルじゃなかったんです。
新規開店でみんなヒリヒリして不安で、精一杯だけど周りが見えない状況に既視感がありました。俺が必要なのは、今までの経験から得た知識や体験を活かしてこの局面を乗り切っていいチームにすることなんじゃないか、って気づいたんです。
おぉ!キャプテン南さんが戻ってきましたね。
ほんまですね!でもキャプテンやってた時は、そこまで明確な意識はなかったと思います。何かとリーダーになりたがる性格でしたけどね。
意外とこの役割を楽しんでいる自分がいますね。監修したカフェはみんなで支え合って笑顔で、10年、20年続く土台を作れたら、僕は抜けてもいいと思ってます。外部委託でいつか抜けるから、その時に残るものを作りたいです。自分のクリエイションをしたいという気持ちは、今はあまりないですね。
チームクリエイションとも言えますね。
最近は不思議なことに、料理に対して特別なものを作りたい、って意欲が薄まってきました。嫌になったわけじゃなく作ったものが、しみじみ美味しかったらそれでいいな、になってきました。
今の南さんらしいです。南さんって、システムとか構造に目が向きますよね。
そうかもしれないですね。直感的に構造に行くのと、たぶん僕の繊細さもあって、辛いところにはすぐ気づいちゃうんです。料理長にも言われました。「一番大変なところに、すぐ気づきますよね。そこにすぐ助けに行きますよね」って。「見てるんですよ」って。自分では意識してないんですけどね。言語化が難しい。
理想の生き方は、何も考えなくてもナイスでスムーズで「いいじゃんいいじゃん」っていってるやつが一番いいと思うんですよ。でも僕は色々見えてしまう。構造とか仕組みとか。
目がぼやけてる方が綺麗に見えることもあるし、綺麗な性格だと綺麗じゃないものが見えちゃう、みたいな。
ラベルを外し、目の前のことを楽しむ
南さんの素敵なストーリーをありがとうございます。南さんのこれからを聞かせてください。
来年50歳。一回、自分についたラベルを全部外して、ゼロから生き方を考えてもいいんじゃないかと思ってます。20代前半みたいに、何を見ても刺激でドキドキした自分に戻ろうかなと思ってます。
原点回帰ですね。
湘南の行列店の人、ミシュランの人、独創的な料理人、というイメージを全部剥がして、一人の南大祐として、目の前のことを楽しむ。少年の頃はきっとそうだったはずです。
今は小説を読むのが純粋に楽しいです。大衆小説も純文学も、ミステリーもハードボイルドも全部楽しいです。飛騨に来たことで、自然環境が感じられる作品がより味わい深く感じます。先の目標は正直何もないです。かっこよく、これに挑戦しますって言える方がいいんだろうけど、なんもないです。
それも素敵ですね。今のアイデンティティはどのように捉えていますか。
アイデンティティ?アイデンティティについては考えなくなってしまいました。理想は、何してる方ですかって聞かれたら「はい、生きてます」でいいと思ってます。俺のアイデンティティはコレだ!とか名言化する必要ももうないかな、って。昔なら湘南でこうして、石川でこうしてって語ってたけど俺ぐらいの仕事してる人は山ほどいて、語ることもないんかなって思います。24歳でオリジナル料理を作りたいって思った時の俺には到達できなかった技術を手にして、成し遂げてきたと思う反面、誇れることでもないです。
なるほど。
年齢と共に情熱はどうしても減っていくと思います。だから心地よく好きなもの、やりたくなったことに飛び乗れる自分でいたいですね。心と体と向き合って、自由で、悪いものが溜まったら流していける自分でいたいです。
ここから10年は新たなものをインプットする時期ですかね。60歳ぐらいで、ほんま南らしいなって言われる仕事ができたら良いと思ってます。その時、何してるか分からんけど、料理はしていると思います。パンを焼くのもハマってるし、畑も続けます。少年の頃みたいに文章を書きたい気持ちがふつふつ湧いた時にはパッと書ける自分でいたいです。あ、そうそう、最近エッセイや短編小説を書き始めました。これは時間をかけてゆっくりと、ほんでもってこれからもずっと続けたいです。なんかほんま、20代前半みたいな気持ちです。いつか出版できるくらいになりたいな、なんて思ったりしています。
ラグビーをやりたい気持ちもあるんですか。
めっちゃやりたいですね。バチバチあたりたいです。ラグビーも、改めて今のルールでやりたいです。ブレイクダウンとか、スピーディーなやつです。僕らの時は踏みつけたり指をひっくり返したり、アスリートじゃなくて、ラガーマンというジャンルだったから今のラグビーをやりたいです。柔術もボクシングもレスリングも、勝ち負けじゃなく、純粋にやってみたいですね。飛び込めるように心身整えたいです。
南さんらしい純粋さかもしれないですね。
ちょっと前の僕は不純でした。評価されたい、有名になりたい、という気持ちがめっちゃありました。今はその感情はなくなったけど、俺こんなもんじゃないやろうな、って気持ちはまだあります。
これから何が起きるか、判断してどんな状況になるか、今まで以上に楽しいことがある気がして、自分に期待してます。
料理人というアイデンティティはないですか。
ないです。俺が料理人と名乗るのは料理人に失礼かなと。自分を表す日本語は、「南大祐」ですかね。名前すらも、今の人格につけてもらったラベルでしかないからしっくりこない。ラベルを全部外した時、あいつ面白いな、って思ってもらえたらいいなと思います。
ラベルや肩書きでなく、僕も南さんの人間性に惹かれていますね。
嬉しいです。回り道してきたし、どん臭いし、痛い目に合わないと気づかない人生だった。これからはなるべく、関わる人と心地よい、楽しい、を増やせる人生にしたい。歯を食いしばって戦って乗り越えるのは、もういいかなと思います。
島田さんと出逢った時の自分の感覚と、8月に智頭町に行った時の感覚と、今の僕では全然違いますね。当時は自分の中に確固たるもの、世界観みたいなものがありました。今は一回その世界観を更地にして、いま吸収してる段階ですね。
手放した感じですか。
僕の感覚だと、この土地と溶け合ってるというより、都市から離れて都市生活をちょっと遠くから見てる感覚なんです。たまたまそれが飛騨でした。タイミングが前後してたら、それが智頭町だったかもしれません。
前までのエネルギーは、何かを獲得しようとするエネルギーで、生身の自分じゃなかったのかもしれません。もともと大人数でバーベキューとか好きじゃないし、みんなで一体感とか、正直あんまり、と思ってます。
でも今の南さん、根っこを掴んでる感じがしますよ。外に発散する元気じゃなくて、自分の中の元を掴んでる元気にみえます。
そう言われると嬉しいです。自分ではよくわからないですね。無理に元気を出してるわけじゃなくて、自分の動作とか生活から得られたものという感覚はあります。
そのままで、心地良く生きる
最後に、これまでの色々な経験を踏まえてメッセージがあればお願いします
今、歯食いしばってる人もいるし、悶々としてる人もいるし、純粋に暮らしを楽しんでる人もいる。そのままでいたらいいんじゃないですか。歯食いしばる理由、悶々とする理由もあるでしょうし、僕のメッセージだけで、そっかって思わせるのは、今の僕の生き方に反する気がします。イライラしたり、モヤモヤしたり、ヘラヘラしたりしながら生きてたらいい。好きなことを一生懸命やれればいいと思います。
南さんのように、純度高く好きなことをするって素敵ですね。
矢野顕子さんの曲の歌詞で好きなものを見つけて抱きしめて生きていく、みたいな一文があってそれでいいと思うんです。イライラしててもいいし、モヤモヤしててもいい。解決しなくてもいい。その感情と並走していけたらいいと思います。僕は心地よく生きたいなって思ってるだけで過去の自分を乗り越えて今ここにいるなんて思ってないです。過去の自分も否定してないし、頑張ったな、中々かっこよかったぞ、って思います。それでいいんじゃないでしょうか。